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俳句の鑑賞㉖


投げ出して足遠くある暮春かな

村上鞆彦句集「遅日の岸」P.48

季語:暮春(晩春・時候)

両手で自分を支えながら、両脚を投げ出すことってあります。
何かに一区切りがついたときなどに。

ふと、シロツメクサが蔓延っている野原を想像いたしました。羽織っていた薄い上着を脱いで、同時に、あれこれのしがらみも脱いで、ぶっきらぼうに足を投げ出す。
春の暮という季節のお陰もあって、自分の足までもが遠く、思えるのです。
そんな時間を過ごすことができた作者に、よかったね、とお声がけしたい気持ちです。


父の日の夕暮れの木にのぼりけり

村上鞆彦句集「遅日の岸」P.49

季語:父の日(仲夏・行事)

父の日を過ごした夕暮れ、木にのぼる少年或いは少女が、どんな気持ちなのかなあ、と考えます。

私自身は、赤ん坊の頃に父を亡くしているので「父の日」はちょっと不思議で、ちょっと寂しい日でありました。ですから、誰もいない公園で木のぼりをして(私はお転婆でした)赤い空を眺めているときには、周りが少し羨ましく思えました。

父の日、ひとそれぞれ多くの想い出を持っていることでしょうし、それをふと思い出すことのできる御句と思います。


春寒き死も新聞に畳まるる

津川絵理子句集「夜の水平線」P.60

季語:春寒(初春・時候)

春になっても、朝晩はまだまだ冷えます。そんな中、飼っていた生き物が息をせず丸まっている姿を見つけます。
手の内に入ってしまうほどの小さな命を失うことには、また独特の気持ちが沸き上がります。

そんな亡骸を丁寧に新聞紙で包み畳みます。何もしてあげられなくて、ごめんね、と思いつつ。

追記:春寒き日、新聞の訃報欄に目を通して畳んだ、との解釈もあります。
鑑賞としては随分違ってきますが、それがまた俳句の味わいの深さでもあります。


甘露煮の醜きかほや春の暮

津川絵理子句集「夜の水平線」P.61

季語:春の暮(晩春・時候)

甘露煮、小魚でしょうか。醜いかほ、との措辞に思わずくすっとしてしまいました。
雪平なべで(勝手な想像です)炊いている小魚、いつもでしたら気にしないその一匹一匹の顔をふと眺めてしまう春の暮。

主宰の一句目の暮春とはまた違った、ほのぼのとしたひとときです。


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「南風」村上主宰と津川顧問句集の「俳句鑑賞」の経緯はこちらの記事に。
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