『不器男句集』(青空文庫)を読む。【同時に句集を読む会①】
『不器男句集 / 芝不器男』(青空文庫)より、心に残った句、十選。
南方日午さんの👇企画への参加。
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以下、簡単な鑑賞を。
季語:田打(仲春・生活)
熱心に田を打つ作者。その最中に汽笛でも聴こえたのでしょうか。
顔を上げれば、視線の先に汽車。それが視界から消えるまで見届けます。
丁寧な中七の効果で、読み手にも、汽車と田打ちとの景がゆったりと広がります。
季語:暮春(晩春・時候)
人々(複数と解釈)が奥に消え、残った門へと、読み手の視線も、気持ちもフォーカス。
その様子を見守る作者の立場と、時間経過に興味をそそられました。
春そのものも暮れてゆく、晩春の夕暮れ。これが、秋の暮の景だとしたら、あまりにもさみしげ。春だからこその希望もある余韻、であります。
季語:草餅(晩春・生活)
袂草は袂糞、袂の底にたまる塵と解釈。
遠出の作者、途中、川べりでの休憩に、草餅で一服。重みで袂の底に沈んだ草餅を探れば、塵がたまっていたことに気づきます。
その塵を、野川に流す、何とも風流。
草で始まり、草で終わる一句。草餅の香と、せせらぎの音も感じられます。
季語:飼屋(晩春・生活)
火の灯る飼屋のなかで、ひたすら葉を食べる蚕と、灯りの消えた母屋で眠る人間。
灯と闇、生と眠、その対比のなかで夜は更けてゆきます。
味わえば味わうほどに、深みと、一抹の恐怖とを感じる一句。
季語:秋(三秋・時候)
秋の磧に残っている、もう色を失くした川蟹の死骸。
ただ、その描写のみでありながら、中七のひらがな「しろきむくろ」が何とも不気味。
もしかしたら、川蟹は作者自身なのかもしれない、とふと思いました。
季語:夜半の秋(三秋・時候)
十字架の表記で、読み方がクルス、個人的にとても好きな表現なので、はっといたしました。
「はゞかりてすがる」のは、十字架。作者の精神的苦悩が際立つ、秋の更けた夜であります。
(作者は、クリスチャンではないと解釈しました)
季語:秋日和(三秋・天文)
何よりも惹かれたのが、畳み掛けるように続く「い音」。句そのものが、キイキイと音をさせています。
季語が、秋日和、であることにほっとする私がいます。
季語:枯木(三冬・植物)
初見で、すぐさま、南風の村上主宰の一句、
あをぞらをしづかにながす冬木かな
を思い出しました。
恐らく、裸木、一本の木の枝とも、枯木の並木の枝ともとれますが、枝の向こうの青空はただただ美しい。
季語:寒鴉(晩冬・動物)
印象的なのが、助詞の「が」。これによって、自己が非常に強く打ち出され、ひいては、影がくっきりと。
そのような影の上におりたった寒鴉。非常に濃く暗い影(作者)にとっての、少しの救い、友人であって欲しい、と思います。
季語:飼屋(晩春・生活)
パセリの緑と、暖炉の赤が目に飛び込んできました。
海外詠ともとれそうな雰囲気を纏いつつ、料理の添えものになってしまいがちなパセリがひとつ、床に落ち、掃かれているという状況に、儚げな命をも感じます。
記憶に残る一句。
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昨年の春、南風に入会してから間もなく、村上主宰の
を拝読。
時間がたってしまったので、情けないことに詳細を忘れています。
今は旅の最中なので、手元にないのですが、帰国次第、再読をしたいと思っています。
そして、日午さん、このような企画をありがとうございます。
note において、句友さんたちとこのような読書会が実現するのは、嬉しい限りです。
今回、何名かの方が既にこの企画に参加なさっているのを拝見していますが、自分の選句がぶれないように、まだ内容に関しては拝読していません。
(多分、今の私らしい素直な選句ができたはず)
これから、それぞれの方の記事へ、お伺いしたいと思います。