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柚子坊と過ごした夏【随想】(「南風」四月号掲載)
二〇二〇年五月末のことである。我が家のバルコニーに置かれた小ぶりな山椒の若芽に、黄色い小さな粒が五つほどついているのを発見した夫が、一体これは何だろう、と私に訊ねた。
「あらっ、それは産みたてほやほやの揚羽の卵。なんて綺麗なのでしょう」
少年時代、故郷で鬼ヤンマを追いかけ、捕り損ねた蝉に尿を降り掛けられていた夫が、なんと揚羽蝶の卵を知らないというのだ。私は意気揚々と提案をしてみる。
「育ててみない? 羽化までの観察は面白いわよ」
かくして、コロナ禍真っただ中の夏、夫と私は、柚子坊たちを迎えることになったのである。
初々しい檸檬色の卵たちは、発見した四日後の早朝には、完全に黒色に変化した。その時点で、卵のついた五枚の葉を茎から切り取り、キッチンペーパーを敷いたタッパーへと移す。その五時間後、次々と透明の殻は破られ、真っ黒な一齢幼虫が出現。暫くすると、それぞれ脱いだ透明の殻を、小さな口で食べ始めたのである。夫の眼はすでに、かつての少年の眼に変貌していた。
柚子坊たちの食料といえば、山椒や柑橘類の葉である。しかし、我が家の小さな山椒の木の葉だけでは到底賄えなくなるという現実がすぐ目の前に。可愛い子らのために食料調達をせよ、というミッションを天から授かった私たちであった。
早速、庭に二本の山椒の木のある家に住む、私の幼馴染みに連絡をしてみると、丁度剪定をしなければいけない時だったと喜ばれ、数日後には山椒の葉がわさわさと我が家に届いた。水を張ったバケツにそれらを挿し、ほっと胸を撫でおろしたのも束の間、よく見ると、届けられた山椒には、たくさんの小さな柚子坊と卵がついていたのである。
その後、最初の五匹の柚子坊たちは順調に脱皮を繰り返し、食料の山椒について来た柚子坊も成長、卵も柚子坊へと孵化。食欲旺盛な子らは、猛烈な勢いで山椒を食べ続け、間もなくそれらも尽き、新たに近隣から蜜柑の葉を調達。すると、そこにまた幼虫と卵が。この延々と続くループ。私たち夫婦の日常は、増えてゆくタッパーの、糞の掃除と餌やりに明け暮れるようになった。
ある日のこと、脱皮の様子を丁寧に撮った動画を、家族LINEで子どもたちに送ったところ、次女から、
「見事な脱皮だね。ちゃんと最後に貌も落として」
との返信があった。不思議に思い、改めて動画を見てみると、脱皮の最後に、仮面ライダーのような貌の殻をぽとりと落としているではないか。拡大をしてみれば、それは立派な仮面。そして脱皮後には、脱いだ皮をきちんと完食する柚子坊も、硬い仮面だけは残すのである。幼い頃に虫博士になりたいと言っていた娘は、その実力を発揮し、私たちに新たな楽しみをくれたのだった。
柚子坊たちとの生活も丸二ヶ月が経った八月の初めには、蜜柑の葉に、これまでのナミアゲハの柚子坊とは少し異なる個体を発見した。まだ二齢幼虫ほどの身体の色が、かなり明るい茶色なのだ。他の柚子坊とは違うタッパーに入れ様子を見ていると、その成長の速度、大きさは明らかに規格外。突くと出すツノも、普通の朱色ではなく、深紅。漸く落ち着いてきていた夫の好奇心は、またもやマックスに。そして約ひと月後、大きな蛹から羽化したのは、真っ黒なナガサキアゲハ。光の角度によっては、深い藍色にも輝く非常に美しい蝶であった。
こうして、五月から十月終わりまでの半年間に、全百二頭の、ナミアゲハ、ナガサキアゲハ、クロアゲハを羽化させた。残念ながら、孵化できなかった卵、脱皮途中で息絶えた柚子坊、ヤドリバエに寄生され朽ちた蛹、羽化の途中で死を迎えた蝶もいた。それら小さな命の消滅を目の当たりにする都度に、改めて生命の尊さを感じ、ひいては、私たち夫婦の残りの人生の過ごし方を真摯に考える機会を得た貴重な経験であった。
夫は羽化した蝶を優しく掌に包み、バルコニーからふわりと空に放つ。その行方をずっとずっと見送る後ろ姿は、娘を嫁がせる父のようでもあり、いまだ私の眼に焼き付いている。
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(「南風」とは、「南風俳句会」の俳句誌)
柚子坊=揚羽蝶の幼虫。初秋の動物季語「芋虫」の子季語。
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実際の蝶の様子をご覧になりたい勇気のある方は、こちらを(笑)
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