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Daigoの発言と容疑者Xの思想の共通点

3年生の夏休みは、映画を沢山観ようと思ってNetflixで毎日夜更かししていた。

Daigoの発言がtwitterで炎上しているのを13日の昼頃に確認する前の日、なんの因果か夜に観た映画が「容疑者Xの献身」だった。私は、今回の件で二人にある共通点があるように感じた。


容疑者Xの献身に登場する石神は、数学の天才だった。彼は自分の愛する人を殺人を犯した罪から匿うために、通勤途中で出くわすホームレスの一人をアリバイ工作として利用し、殺害した。

映画では、ホームレスなら「たとえ姿を消しても、誰にも気付かれない存在」で、死体のすり替えの判明を防ぐために好都合だから殺害対象になった、と解説されていた。

しかし私は、本当に理由がそれだけなのか疑問に思った。

石神は、「ホームレスは社会の役に立っていないから殺されても仕方ない」という意識を少なからず持っていたんじゃないだろうか、と。

なぜならこうした思想による殺人や暴行は、本や映画の中だけではなく実際に発生しているからだ。渋谷のバス停で突然見知らぬ男に殴られて死亡した事件や、岐阜県で少年に石を投げられて死亡した事件は2020年の出来事だ。殺害理由は「邪魔だった」「嫌がらせをして楽しむためだった」といったもので、どちらもホームレスの命をなんとも思っていないようなものだ。

臭いから

・治安が悪くなるから

・邪魔だから

・プラスにならないから

上記は、Daigoがホームレスが社会に要らない理由としてあげたものだ。今回の彼の発言がどれだけ恐ろしいのかというと、実際にこのような理由でホームレスの命が奪われている事実があるということだ。「邪魔だったから」というだけで殺されたホームレス女性がいるのなら、「臭いから」というだけで本当にホームレスが殺されてしまっても全くおかしくない。

250万人近く登録者がいる中、動画を観た視聴者のうち、この思想に影響を受けて実行に起こす人がどれだけいるのか。Daigoはただのインフルエンサーではなく、メンタリストとして人生の歩み方、対処法などの情報をupしているため、発言や行動の重さも違うはずだ。それにも関わらず、今回彼はホームレスの存在価値を否定し、更に視聴者に「あなたもそう思うでしょう?」と共感を促した。 もし本当に悍ましい事件が発生し、「Daigoの思想に触発された」と犯人が話したその時、一体彼はどう答えるのだろうか。

当たり前だが、先ほどあげた上記の理由は「社会から排除されていい」理由には全くもってならない。

そもそも、どれだけ巧妙に言いくるめようとしても差別されていい人間、殺されても構わない人間なんて絶対に存在しない。

Daigoは、発言への批判に対して何を大事に思うか、誰を大切に思うのかは個人の自由だと話した。容疑者Xの石神は、自分の命や未来に変えても愛する人を守りたいと思った。

私だって、大切な友人、家族、パートナーがいて、幸せになってほしいと願う人たちが大勢いる。この記事を読んでくれる人たちにも大勢いるだろう。個人によって命の重さが変わるように感じることもあるだろう。

しかし、その思いは、代わりに社会的弱者を消しても良い免罪符にはならない。他人の命の重さを決定する権利にはならない。私は、Daigoと石神の二人には、自分にとって大切な命を守るためならば他人を迫害してもいい、または歯車にしても構わないといった歪んだ共通点があるような気がした。


人は、だれかを差別するとき、「自分がいついかなる時も社会的弱者になりえる存在」であることを忘れている。

障害者は生産性がないと言う人は、自分が突然の事故で四肢を失ったり、耳や目の機能がふとしたことで奪われる存在であることを忘れている。

老人は社会にとって有害だと言う人は、自分もいつかは老いる存在であることを忘れている。

ホームレスや生活保護受給者を差別する人は、自分も家を奪われたり、職を失う可能性があることを忘れている。

Daigoのように社会的に成功し、日本国民の平均の何十倍も稼いでいる人物であれば、なおさらそのような危機感を抱きづらいのかもしれない。成功者が差別に疎い傾向にある原因の1つとも言える。

しかし、忘れてはいけないことは、Daigoがホームレスにならなかったのは、本人の努力だけがもたらしたわけではないということだ。運よく経済的に安定した家庭に生まれ、運よくDaigoの両親が教育熱心で、運よく翼を折られるようなことがなく、運よく努力が実りやすい環境で育つことができたからというだけだ。

自己責任論や努力不足を理由に他人を差別する人間は、自分が享受しているものが努力だけでは到底得られるものではないことを忘れている。

そして、自分の弱さや脆さを受け入れることのできない人間は、他人の弱さを認めることができない。

Daigoが考え直すべき点は、自分の成功が努力のみで実ったものだと過信したこと、環境や運によっては、自分も社会的弱者になりえる存在であることを認めないことだ。


そして、今回の発言を受けて思い出したのが、2019年に物議を醸した東大祝辞だ。



以下は抜粋である。

あなたたちのがんばりを、どうぞ自分が勝ち抜くためだけに使わないでください。恵まれた環境と恵まれた能力とを、恵まれないひとびとを貶めるためにではなく、そういうひとびとを助けるために使ってください。そして強がらず、自分の弱さを認め、支え合って生きてください。

Daigoも、石神も、自分の頑張りを、才能を、恵まれない人を貶めるために利用してしまった。いつか、彼にも自分の弱さや脆さを見つめなおし、その人たちに手を差し伸べるため時が来てほしい。

そして、この記事を読んでくれた方々は、ただの炎上案件として捉えるのではなく、根本的に存在する差別構造について考えるきっかけになればとても嬉しい。








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