
#2 お下品なお殿様で蘇るわたしの嫌いな祖父との記憶
わたしの母方の祖父は癇癪持ちだった。
数年前だって許されることではなかったけれど
時効なんてことはないけれど、
機嫌を損ねると怒鳴り散らし物を投げ
酷いときには平気で手をあげてきた
そんな祖父のことを好きだと思ったことは一度もない。
亡くなって3年経った今でも。
皮肉にもわたしにとって唯一"嫌い"に分類される人間かもしれない。
先日この国の代表的なコメディアンである志村けんさんが亡くなられた。
物心ついた頃から当たり前にテレビに出ていた愉快なおじさんだった。
十分な医療を受けて当たり前に回復すると思っていただけに
Twitterで訃報が流れてきたときはフェイクニュースだと信じて疑わなかったが
再び布団へと導こうとする朝の静けさを誤魔化すようにただつけているだけのテレビからあまり良い知らせを見た覚えの無いあの音が部屋に響くと反射的に画面に顔を向けてしまった。
やっぱり信じられなかった。
まったくもって身近な存在ではないハズなのに
親戚が亡くなったかのような気分だ。
志村どうぶつ園だいすきだったなあ。
あまりに突然のことでやりきれない気持ちでいっぱいだ。
わたしは子供の頃バカ殿様が嫌いだった。
癇癪持ちで大酒飲みで自分の機嫌の良い時だけしつこく話しかけてきて
気に入らないことがあると暴言や暴力をふるってくる古い人間の祖父のことがとても嫌いだったからだ。
祖父はバカ殿様が大好きだった。
放送日には決まって機嫌が良く1日に何度も
「今日バカ殿様だぞ」
と言ってきた。
ビデオテープに大事に録画までしてワンカップの瓶を片手にひとりでケラケラ笑っていた。
機嫌が良いことにホッとする反面、何の罪もないのに顔色を伺いながら生活してる身内は気まぐれに手をあげられたり罵声を浴びせられるのに
画面の向こうの白塗りでヘンテコで当時のわたしにとってはお下品でしかなかったおじさんがバレリーナの格好をして白鳥つけて戯けてるだけで祖父が上機嫌になることがなんだか気に入らなかったのだ。
家族の誰かが白塗りになれば祖父の癇癪玉は消えたのか?
きっとNoだ。
祖父は昔船乗りだった。
年間のほとんどを船上で過ごし外国を周り
母が生まれてからも日本にいないことのほうが普通だったそうだ。
戦後の日本の社会が移りゆく様子を祖父は見ていない。
女性や子供は奴隷だという戦時中のマインドを持ったまま日本を長らく離れてしまい、平成に戻ってきたときには心が浦島太郎の状態だったわけだ。
わたしが生まれ、物心がついた頃にはもう仕事を辞め毎日家で水戸黄門を観ながら何か書き物をしているか山で木を切っていた。
自分の娘が子供の頃は子育てどころか小さな姿や成長する過程をほとんど見ていなかった祖父にとってわたしは、初孫であるが初めての"成長する生き物"だったのだろう。
わたしというちっちゃい生き物に興味があったのか単純にしつこく絡んできた。「だいちゅきだいちゅき」と言いながら顔を擦り寄せてくるのが鬱陶しくてイヤだった。これは嘘のない愛情だったのかもしれないけれど。
わたしが初めて祖父に手をあげられたのはまだ保育園児の頃だった。
今思えば祖父の機嫌を損ねないためだったのかもしれない。御行儀と言葉遣いだけは厳しく育てられていたのが裏目に出てしまった事例がそれだ。
夕食が出来ると毎日祖母に
「くっちゃん、おじいちゃんにごはんできたっていってきて」
と言われるのがお決まりで
ほんとうはイヤだったなんて今の今まで言ったことはないけれど(もう今更誰にも言わないけれど)
子供ながらにイヤだと思ってることが悟られないよう祖父の部屋の戸を叩きに行っていた。
ある夜、祖父の部屋の戸を叩き
「ごはんできたよ」
と部屋を覗くと祖父が机の上に足を置いてテレビを見ていた。
それを見て御行儀が悪いと思ったわたしはなんの悪気もなくそれを本人に指摘してしまったのだ。
一瞬だった。いつもヘラヘラしつこく追いかけ回してくる酒臭い祖父の手が頭に飛んできた。
ちょっとした痛みでもすぐ泣く子供だったわたしが泣かなかった。
泣いてもっと怒らせるのがこわかった。
泣かせて勝った気になられるのが悔しかった。
だから初めて泣くのを我慢した。
こんな初めていらねえ。(お口が悪い)
機嫌が悪いときに手を出されるのは毎回妻である祖母、娘である母のどちらかだった。
この一件で孫であるわたしは叩ける対象になってしまった。
わたしに手が飛んできそうになると祖母や母が必死で守ってくれた。
だからわたしが祖父の一撃をくらったのは一生であの一回だけだった。
けれど大好きな家族が殴られる姿を見るのは酷だった。今でも人の手が自分の頭の上に来ると反射的に縮こまってしまう。
暴力的な祖父がバカ殿様を好きな理由はなんだったのだろう…
お下品だからと毛嫌いしてちゃんと見たことはなかったな…
ミニモニ。が大好きだったからアイーン体操の印象しか正直あまりないのだけれど、
ミニモニ。と一緒に踊るくらいだもの、国民に愛されていたキャラクターだったんだろう。
おかしなことしても迷惑かけても許され愛されるあのキャラクターに祖父はどこか憧れていたのかもしれない。
愛されたかったのかもしれない。なんて今思う。
そういえば小学校1年生の頃だったかな。
父と母と弟と4人で蝋人形館を見に行ったことがあった。
はじめは可愛らしい動物や世界的アーティストが並んでいたが、奥に進めば進むほど暗くなり時代物のリアルな人間の人形が並んでいて
着物を着て刀を持った侍たちなんて今にもこちらを斬ろうとしているかのように見えて怖くて泣きながら速足で館を抜けようとしていたその暗闇の中になぜかポツンとオレンジ色の小袖を着た白塗りで極太眉毛でおちょぼ口の殿様がひとり佇んでいた。
なぜだかその姿にホッとしてしまった。
そういうことなんだろう。
それからバカ殿様のことは嫌いではなくなった。
わたしが高校生の頃から祖父は認知症を発症し、身体は人一倍元気で体力オバケなくせに昨日のことはおろか3分前のことまで忘れてしまうことも出てきた。
ドドド田舎で警察の方も幸いお暇だったのだろう(失礼)
自転車で出かけ、自転車を降りて帰ってしまい迷子になった祖父がパトカーで家まで送り届けてくれたことがあった。
既に祖母は祖父と熟年離婚をしていて父母は仕事、わたしも弟も学生だったもんだから
昼間勝手に出歩かれてしまっては誰も気付けず手に負えなくなった。
昼間だけデイサービスのおためしに何度かお願いしていたこともあったが、ご近所付き合いも上手でなかった祖父はすぐ家に帰りたがった。
それから間も無くわたしは進学のためひとりで実家を出た。
月日は流れ、
「なんでも感謝だよ」が口癖の仏のような母もさすがに同意したようで祖父が入院することを聞かされた。
祖父が亡くなったのはわたしが就職して1年目の秋だった。
夏休みに帰省して母に
「もうほとんど喋らなくなっちゃったけどくっちゃんも1回くらいお見舞い行ってあげない?」
と言われ最初で最後のお見舞いに行った数ヶ月後のことだった。
ボケは進行しているのに身体が元気で動き回ってしまうからと薬で抑えられてしまってからあっという間だったようだ。
ほとんど反応を示さずぼんやりとしている祖父は
看護師さんたちのなかでは"カワイイ"と人気があった。
こんなに人に好かれている祖父を初めて見た。
複雑な気持ちだった。
葬儀の前日は弟の誕生日だった。
まさか実家に帰ることになることになるなんて想定していなかったわたしは、弟の欲しがっていたでっかい虎のぬいぐるみを日時指定で送っていたことなどすっかり忘れていて一緒に驚いた。
祖父の抜け殻の隣にでっかい虎が寝そべっていた。
「おじいちゃんこういうの好きだろうな。生きてたらたぶん拉致られてるわ(笑)」
18になった弟は随分と穏やかだった。
葬儀にはかつての妻である祖母も来てくれた。
「おじいさん、じゃあね。」
離婚後黙って出て行った祖母が10年越しにさよならを言った。
きっとそこにまたねの感情は1ミリもなかった。
祖母はなぜ祖父と結婚したのだろう。
一生聞かないでおこう。
霊柩車の助手席には父が座った。
一緒に暮らす上で唯一暴言も暴力も受けることがなかったわたしの父が。
祖父の中ではあくまで他人であり、自分より若い男性には敵わないことくらいわかっていたのだろう。
火葬場で落ち合った父は表情を変えずに言った
「携帯マナーモードにするの忘れててさぁ」
まさか
「車の中で『ワ〜オ♡』が鳴っちまった」
「…で、どうしたの?運転手さんたちは?」
「…無言。」
「全員よく耐えたね……」
パロディウスの効果音、テレビでセクシーなシーンが流れる際によく使われるアレをメールの着信音にしていた父…
不謹慎にもリアル笑ってはいけない状態を作り出してしまったのだ。
そういう笑い
祖父は好きかもしれない。
ある時ふと思い出したように母が言った
「おじいちゃん、くっちゃんがお見舞いに来てからしばらくずーっと寝たきりで全然反応しなくなっちゃったんだけどね、『この前くっちゃん来てくれたねぇ。よかったねぇ。』って言ったら『うん!』ってハッキリ頷いてさぁ。みんなびっくりして笑っちゃったよ(笑)」
なんだかんだあんたのことが一番可愛かったんだよなんて少し寂しそうに呟いた。
母も実父にきちんとわかる愛情を受けたかったのかもしれない。
そういえば小さい頃から部屋にあったドレミファ・どーなっつ!の木製のすべり台
あれは祖父がわたしに買ってくれたものだったらしい。
今思えば結構なお値段しただろうに。
そういえばわたしのおままごとおもちゃのビニール製のたまねぎを勝手に逆さにして爪楊枝を刺して丁寧に色を塗って「コマになるぞ」と自慢げに見せられて大泣きしたこともあった。
あれも決して意地悪したわけじゃないって今ならわかる。
そういえば小学生の頃、家庭科の宿題で針に糸を通すことに大苦戦してる時、わたしに初めて糸の通し方を教えてくれたのは祖父だったなあ。
今わたしは針仕事をしていて毎日毎日針に糸を通している。不思議なもんだ。
血の繋がった人間を大人になっても許せずにいる自分も嫌だが
身内だからといって思い出をわざわざ美化して許してしまうなんてのも嫌だ。
思い出を美化しようなんてちっとも思わない。
嫌いなままいなくなってしまったのだ。
どんなに視点を変えたって今から好きになることはないだろう。
死ぬまで許せないことだってきっとあるし、今までにわたしが何度か祖父に良からぬ感情を抱いた記憶はこれから先もずっと付き纏うことになると思う。
誰にも話そうとは思っていない一生モノの傷。
おじいちゃん、バカ殿様そっちいったってよ。
ビデオの録画ボタンならさっき自分で赤く塗ってたじゃ。
くっちゃんねぇ、バカ殿様嫌いじゃなくなったよ。好きじゃないけんね。
そう伝えに
2度目のお墓参りは誰にも知られないように行くつもり。
そんなことをたった1人の殿様のせいで考えていたら今朝、家を出る時お昼のお弁当に箸箱を入れ忘れた。
会社に置きっぱなしにしていたコンビニのスプーンに助けられた。
コンビニのスプーンおっきくて苦手なんだよなあ。
お弁当ガチガチに和食詰めてきちゃったのになあ。
鮭をスプーンで食べたこと今までにあったっけかなあ。
前にお箸忘れてマドラー2本で頑張った時よりはずっとマシか。