
きっとそれを愉しむ日だった。
昨日、小·中学校がいっしょの友だちと久しぶりに福島で呑んできた。
呑む前にも、イヤリング🍒をなくした事件があったり(その後、自宅で着替え中に洋服の隙間から見つかる)、上着を持参しなかったから購入したりもした。
呑んでる最中は、近況だったり、他の人の恋バナで盛り上がったり、マクロス7やとわ子について語ったり、まじめな話をしてみたりと愉しい時間の共有ができたなぁ。
飲み終わったあとのミスドではうっかり話し込みすぎて、電車に乗りそびれたときに対応してくれた駅員さんも、終電が松川止まりと車内アナウンスで知ってからの絶望と、セブンのタクシー呼んでくれたおにーさんにも顔のイケメンさだけでなくジェントルマンを感じて希望を感じたりとなかなか愉快な1日だった。タクシーのおじさんもやさしかった。
かのは周囲に助けられながら生きながらえております、ありがとう。
誰かと語り合うことには、自分が楽しませられている分、自分が楽しませているという双方向性がある。
— +M laboratory (@freakscafe) April 22, 2023
会話の楽しさというのは、そういう双方向性にある。
双方向性の体験は、コンテンツ消費では得られない、特別な感覚を与えてくれる。自己効力感と受容感が交々混ざり合って熱くなっていく感覚だ。
昨夜は愉しくて、こんな感じだったなと思う。
なつかしい話に互いの好きなことの話はもちのろんのこと。イヤリングを落としたと気づいたとき、あきらめているわたしを励ましながらいっしょに探してくれたこと、ほんのわずかな経験しかないわたしを子どもに関する専門家として頼ってくれたこと、ほんとにほんとに嬉しかった。彼女とは嬉しいの循環をしているなぁと実感する。
全恋のご利益も古関のご利益もあったかもしれないなぁと勝手に思い込んでる。
しらんけど。
お酒が運んできた出逢いは億千万だろうけれど、昨日の出逢いは億千万のなかでも特に嬉しいに溢れていた。