12月:文楽公演『桂川連理柵(かつらがわれんりのしがらみ)』鑑賞記
20代で独身の頃、何に最もハマっていたかといえば、人形浄瑠璃・文楽なのである。
歌舞伎や能狂言と同じく、伝統芸能のひとつである文楽。その名は、17世紀当時、大阪で公演していた一座(植村文楽軒)が由来とされます。そう、文楽のホームグラウンドは、令和の現在においても、大阪。年に数回、東京・国立劇場での定期公演があり、2003年にはユネスコの無形文化遺産に登録されてからは特に、東京において時に歌舞伎よりも切符の取りにくい人気エンタテインメントであったのです。
文楽の魅力を一言で伝えることは難しく、ご興味のある方は人気作家である三浦しをん氏の『あやつられ文楽鑑賞』一読をオススメします。その他にも文筆・他分野などジャンルを問わない様々な著名人が文楽について語るエッセイや入門書は、大きめの書店や図書館で、かなりの数目にすることができるはず。そうした本には必ず、著者がある日突然熱を持ったようにハマってしまうきっかけについて書かれていますが、そう、”魔力”としかいいようのないような、生きた魅力がこの江戸期の芸能に今も息づいているのです。
「人形による劇」というと、どうしても子ども時代に見たような、懐かしく素朴な人形劇を思い浮かべがちだけれど、文楽は人形を操る「人形遣い」、ストーリーを語る「太夫」、そしてBGMとなる「三味線」弾きの3者が一体となって生みだされる"総合芸術”。人形はかなり大ぶりで、小柄な大人くらいのサイズのもある。ひとつの人形を3人がかりで「遣う」ため、不自然なく動かすためのチームワークにはかなりの修行を必要とし、メインの遣い手である「主遣い」になるまでには、約10年かかるとも。太夫や三味線の修行ももちろん同様で、歴史ある伝統を後世へとつなげていくことの代償、それをやり遂げる演者の方々の気概には、想像を超えるものがあり、いつも頭が下がるばかり。
例年、東京12月公演は「文楽鑑賞教室」と題して、鑑賞ビギナー向けの解説付き演目がメインイベントとなる。その他、短めの公演を複数されるので、初めて劇場に足を運ぶ人にはオススメの機会だと思う。私にとって久しぶりの12月公演、鑑賞教室とは別にかけられた世話物(歴史的題材を扱う『時代物』と区別した、町人文化を題材としたお話)・『桂川連理柵』(かつらがわれんりのしがらみ)を鑑賞した。お目当ては、20年以上にわたり家族ぐるみで懇意にしていただいている人形遣い、吉田玉助氏。今回、主人公・長右衛門の父親役として登場している。玉助氏は既に大役を張る人形遣いの花形の一人として、数々の演目でメインの男役を演じているが、12月公演においては先述のとおり「ビギナー向け複数公演」として主に若手の演者さんたちが初役に登場する機会でもあるため、そうした若手の方々をサポートするた立ち位置。でも逆に、こうした機会にこそ見られない役柄ともなるので、ファンとしてはいつもと違った一面を見られる貴重な機会と、わくわくと足を運びました。
とはいえ、コロナ禍の中。一時は公演休止にもなっていた文楽公演は、再開後、万全の感染防止対策で行われていた。会場の隅々まで目の行き届いたソーシャルディスタンスへの呼びかけや、飲食スペースの確保、そして入退場についても新ルールが徹底され、安心して観劇に集中することができた。可愛らしく魅力的なイラストでいつも文楽の世界を楽しくわかりやすく紹介してくれる、イラストレーター・中西らつ子さんによるこんな呼びかけチラシも(国立文楽劇場版)。様々な困難がある中で、着実に、そしてしっかりとファンの目線に立って大がかりな対策や柔軟に変化に対応いただいていることが有り難いと思う。
さて『桂川連理柵』は数ある世話物の中でも人気の作品のひとつだが、その内実がちょっとエグくて凄い。40代の妻子持ちの男(商家の跡取り)と、10代の娘が不倫という”間違い"を犯した挙げ句、ともに入水するという物語である。世話物には男女心中ものを初めとしたセンセーショナルなテーマが多く、当時の人々にとって、芝居という娯楽はいわゆる昼ドラ的な興味を煽るものだったのだろう。実際に起こった事件を時期や設定を変えて演じられた機会も多く、有名な『曾根崎心中』はその代表といえます。
『桂川~』の長右衛門とお半の物語も、現代の感覚で言えばあまりにもあまりな話。当時にしたって、残された気丈な妻・お絹の気持ちを思えば、観客の女性の多くは腹立たしさと呆れを感じていたのではないか。「ありえないよね長右衛門!」みたいな感じで観劇後、そこここでお喋りに興じる元気な江戸っ子たちの姿が目に浮かぶ。もちろん物語、そして芝居となるための脚色・見所が随所にあり、帯屋の段では、不倫の事実で邪魔な義兄(長右衛門)を陥れようと画策する儀兵衛と、お半に憧れる丁稚の長吉との噛み合わない会話やドタバタ劇の妙が、笑いを誘っていた。シリアスから一転、会場が沸くようなシーンに軽やかに切り替わるところは、「人形」だからこそのシュールさ、不思議さを感じて、毎回魅入ってしまう(たとえば人外のもの――獣や精霊のたぐいの表現は、もうちょっと神がかっているというか、その場に生まれる空気の感動を、うまく言葉に出来ないほど。)
玉助さんの長右衛門の父・繁斎さん役、荒れる家内での唯一の良心という感じで、存在感たっぷりだった。コロナ禍となって以降、文楽に関わる皆様も本当に大変な経験、日々をまだ今も過ごされていると思う。それでも、社会的距離を取りつつ多くの方がいらしていた劇場、開演前からの期待に満ちた雰囲気が、凄く嬉しく感じたしこの場にいられることを幸せに感じた。情勢は日々刻々と変わるけれど、これからもずっと見つめていきたい大切な文化の火を絶やさないために、微力ながらこれからも、自分なりに文楽の魅力を伝えていきたいと願っています。