今日という日に(9/2夏休み明け初日)
上記のNoteを読んで、別の視点の今日(夏休み明けの初日)を思い、そして書いてみます。
今、彼ら(13才から18才)の近くにいて仕事をするものです。まさに今日夏休み明け初日でした。新聞に9/1(夏休み明け初日)を選ぶ子が年間で最多だという記事を見つけました。今日はそんな日か、とちょっと頭の片隅に置き出勤しました。
ほとんどの生徒(全校生徒の99.9%)は昨日の夜はちょっと憂鬱だっだけど何とか起きて、制服きて電車に乗って遅刻せず来たら来たらでまあ普通だな、という様子です。0.1%は宿題もまともに提出できないのに、学校が大好きで、今日のこの日を指折り待っていたタイプのやつです。
もしかしたら、上記の田中さんのNoteの気持ちに思いあたる子は99.9%のうちの3%くらいに入って、そして「死なず」か「死ねず」を選ぶのかもしれないとさえ思います。
何が言いたいかというと、自死を選ぶ彼らの多くに「一瞬の間」に潜む「衝動」の結果がある気がします。ただ「衝動」なので、「時間の経過による結果」とは言い切れないほどに、瞬間的に偶発的に起こる、ないしは起こった可能性をはらんでいます。もちろん「衝動」をもたらす因子は無数にあります。あらゆる人間関係に生じえる不和だったり、成績だったり、成長期特有のメンタルの不調、コンプレックスだったり、、、その子の数だけあるはずです。そこに周りの大人が未然に気付くのがとてもとても難しいのです。
だから仕方なかったとあきらめているのではありません。
彼らもだまし、だまし、その衝動を逃がしながら(多くがネットに依存することで)隠しているので、一番近くにいる大人(保護者)ですら、携帯の画面ばかりみて(どちらも)、平然を保とうする子の本当の顔色は見えないのです。表面的には特段、変わった様子はなかった、という実感です。
調査では自死に至った経緯(状況からの想定と遺書で推測されたもの)の多くは「いじめとみなされる人間関係」のようですが、本当の本当は分からないくらい複雑で、多種多様で、一言では言い切れません。まさに「死人に口なし」の現実です。
現場にいる私個人の肌感としては、いじめも多少なりあるかもしれないけれど、それが全てではなく、もっと姿かたちのはっきりしない漠然としたこと(きっかけ、気持ち)で、そのことへの対応やフォローを本人自身はもちろん、周りの大人もできなかった、もしくは見過ごしたことが起因すると思っています。
自分ではない誰かの生活スタイルや容姿や言動、一過性の瞬間的な快楽ばかりに目をむけるのに1日の多くの時間を費やして、とても忙しくして、昨日、実際に会った、見た、普段通りのはずの「あの子の様子」を語れる人は少ないのです。
私は、自分ではない誰かや何かのタイムリーな知らせや情報が世の中からもう少し枯渇して、ぼ~としたり、呆然と立ち尽くしたりする時間があればなぁと思うようになりました。そうした時間に、自分を内省することでしか判断できない状況と環境があれば、と思うからです。また前を向いて、「生き続ける」ための理由はもっともっと自分の中の奥底にあると思うのです。
もちろんそれを見つけるために、あるいは目の前のつらい現実、ありふれた日常から抜け出す(学校なんて行かない)ことも有効な手立てになると思います。そして実感してほしい、どんな非日常も3日も繰り返せば、それが日常になることを。気持ちもです。やっぱりです。
何かしらの生きるためのヒント、「死なない」、「死ねない」理由が、自分という人間がこれまでに経験してきたことや、思い出の中に潜んでいないか、ちょっと時間をかけて、探ってほしいと思います。案外、嫌な奴の顔や言動や性格ばかり分析して、自分を知ることはおざなりになっているかもしれません。
「明日が来るのは奇跡」
「明日を願うのは元気な証拠」
元気のない人を励ましたくて、そんなこと言ったり聞いたりします。
でもたいていの人に、無条件に今日と変わり映えのない明日は来ます。
だから一年、一生があっという間と言ったり聞いたりするのです。
私はいつも思います。
今も、明日も「生きるはず」「行きたかった」と強く願ったのに、信じていたのに、そうならなかった無数の人のことを。
それが今、私が「生きている」「生かされている」理由とさえ思ったりしています。
ちょっとだけ顔が上がります。
では、また明日。
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