【インタビュー】妊娠出産で変わる体、私は脳性麻痺のママ。「子どもが無事でいてくれれば、私はどうなってもいいやぁ」
YouTubeやブログでご自身の体験を伝える活動されている、杉並区在住の小川さん(56)現在21歳になる息子さんを妊娠出産された当時のことを振り返っていただきました。
はじめに
「息子は反抗期が無かったんですよ。きっと本人の中では親に対しての反抗心があったんでしょうけど、親に気を使っていたのか押し込めていたのか、目だった反抗期はありませんでしたね。
反抗期って必ずやってくるから、自分の子どもの頃の親をうざいと思った気持ちと照らし合わせて、介入せずに躓いたりぶつかったりして、失敗の体験をさせてあげたいなと思ってやってきました。おばあちゃんがしっかりものだから、ストッパー役はおばあちゃんにお任せして、私は「何でも体験してきなさい!」という気持ちで育ててきました。
今息子は21歳なんですけど、最近は家事を手伝ってくれますね。私がイタタタタとかばかり言ってるから「俺がやったほうが早い。」とか思ってるんでしょうね。ありがたいですよね。甘えてます。」
ーーー障害や身体状況は?
脳性麻痺です。今は自宅内は歩行器で外では電動車椅子に乗っています。車に26万のミニクレーン(車椅子を車に載せるためのもの)を付けたので行動範囲が広がって、今はどこでも車で行きます。あれ、助成金が下りなくて自費だったんですよ。もう大変!
子どもを産むまでは歩けていたんですけど、妊娠経過が進むと共に体の機能が低下してしまって車椅子を使うようになりました。今はヘルパーさん等は使わずに家族に手伝ってもらいながら生活していますが、ヘルパーさんってどんなものなのかなーと思い始めているところです。
ーーーご夫婦の出会いは?
音楽仲間です。私が歌って夫がギターを弾いていました。当時横浜に住んでいたんですが私の方から積極的にアプローチして、付き合い始めてから私が東京の夫の近くに引っ越し、3年経った頃に結婚することになりました。29歳でした。何としても30になる前に結婚したくて(笑)
子どもにも障害があったらどうしよう?
ーーー妊娠出産について不安や反対は?
私の母がずっと闘病してたんです。だから子どもも病気の母も両方は難しいなと思っていて、夫婦で話し合って母が亡くなってから子どもを作ることになり、35歳で息子を出産しました。母に孫を抱かせてあげられなかったことは残念でしたが母に寄り添えました。
本当は3人、せめて2人は子どもが欲しいなと思っていたんです。だけど自分に障害があって大変な思いをしてるのに子どもにも障害があったらと思うと踏み切れませんでした。
夫の両親はその部分はもう私たち夫婦に任せてくれていて、特に何も言われることは有りませんでした。
私はどうしても子どもに障害があったらという部分の不安が大きくて、妊娠判明するとすぐ産婦人科で色々検査して調べてもらい産むことを決めました。
ーーー出産する病院はどうやって決めましたか?
自分に障害があるからということは何も考えてなくて、最初に検査をしてもらった総合病院で出産まで診てもらいました。その病院に私も掛かっていたり、夫もそこで産れていたので「夫と同じ病院で産むんだぞ!」くらいのことしか思ってませんでした。
随分経ってから、とある場所で取材を受けた際に当時の担当の先生の想いを聞く機会があって、その時初めて障害のある母親の出産ということで先生にも色んなご苦労や葛藤があったことを知りました。ありがたいですよねホントに。
いつも夫が支えてくれた
ーーー妊娠出産で大変だったことは?
つわりが酷くて大変でした。妊娠5週くらいから始まって、口にできたのがハムサンドとミンティア、炭酸飲料だったのでそれで凌いでいましたね。お米の炊ける匂いは特にダメでしたね。
真夜中に急に「あ、今これが食べたい。」と思いつき、夫にコンビニまで走ってもらって、「買ってきたよ。」と渡された瞬間に「やっぱりだめだわ。いらない!」と言ってがっかりされたこともありました。申し訳なかったけれど、今思うとありがたいですよね。
結局、妊娠悪阻で入院することになったんですが、不思議と病院食はしっかり食べることができて。環境の違いや、自分で用意することがしんどかったのかもしれませんね。
それでも7カ月までは仕事もしていましたが、お腹が大きくなってきて股関節を痛めてしまって、ずっとトドのように家で寝ていました。歩けないんで抱えてもらったり車椅子の移動になってしまいました。
当時はまだ杖なしで歩けていたんですが、お腹に赤ちゃんがいるのに転べないでしょう。だから転ばぬ先の杖ということで妊娠発覚後、T字杖を使い始めました。そこから杖が二本になり歩行器になり、車椅子になるのは早かったです。
それだけ体には負担が掛かったんだとは思うんですが、不思議と「子どもが無事に元気でいてくれるなら、私はどうなってもいいや!」と思いましたね(笑)
7か月の時に羊水が漏れてしまって入院することになりました。2月19日が予定日で、足が開かないから帝王切開することに決まっていたんですが2月1日に健診をしてもらうと「開いてきてる。もう頭に触れるよ!」と言われてびっくりしました。早く出てきたかったんでしょうね。結局2日後の2月3日に帝王切開で元気に産れてくれました。
ーーー育児で大変だったことは?
まず抱っこして立ってあやすことが出来なくて、座ったままあやすしかない。あばあちゃんはそれができるから、子どももわかっていておばあちゃんに抱っこを求めたり、沐浴などもどう頑張っても自分にはできないことがいくつも出てきて、「母親なのに。母親としてこれでいいの?」と悲しくなることもありました。
母乳もなかなかでなくて落ち込みましたね。そんな時に支えてくれたのは夫でした。彼は楽観的に考えるタイプで、「母乳をあげたからわが子としてしっかり育てました!とかじゃないよ。」と言ってくれて、気楽でいられました。彼なりに悩んだだろうなと思います。でも私の前ではそうやって言ってくれてましたね。
とにかく立ち上がって何かするというのができないからそこは悩みました。お風呂も、お散歩で追いかけることも出来なくて。けれど息子は、繊細な性格だったこともあるんでしょうが「このお母さんは歩けないからそばに居なきゃいけない。」とわかっていたようで、いつも飛んでいくことなく近くにいてくれたのでありがたいなと思います。
子どもながらにわかるのか、そういうものだと思って育っているのか。不思議と夫といるとアクティブでね。バーっと走って行ったのを追いかける夫は大変そうでしたね(笑)
障害のあるママさんたちとお話する時にはよくそんな話が出るから、障害のある親の子どもあるある?なんて思ってます。
感謝と嫉妬の狭間
ーーー育児のサポートは?
夫は在宅で仕事してることもあって、積極的に育児参加してくれました。階下に住むおばあちゃんも買い物に行ってくれたり手伝ってくれました。
子どもが夜泣きすると夫が抱っこして散歩に連れて行ってくれたり、車に乗ると寝る子だったので3人で夜中のドライブもよくしていました。
なんでも積極的にやってくれてありがたかったですが、その分子どもの初めてを全部持って行かれてちょっと焼きもちを焼いてしまいます。初めて立った、初めて歩いた、初めて喋ったは全部夫の前ででしたから。
それだけ一緒に居て、積極的に育児も私のメンタルケアもしてくれていました。そう思うと、当時は当たり前のようにやってもらってましたが今思うと夫に感謝しなきゃですね(笑)ありがたい!感謝しなくちゃ!!
ーーー便利グッズや工夫は?
子どもを移動させることが難しかったので座布団と新幹線の足蹴りの乗り物は重宝しました。ねんね期の赤ちゃんの頃は座布団の上に寝かせて引っ張りながら移動しましたし、立てるようになると新幹線の常用玩具に乗せて、呼ぶと自分で来てくれてとても便利でした(笑)
あとは当時迷子ハーネスが出始めた頃で、それを使っていました。”天使のはね”という名前でした。「可哀想に!」と言われることもありましたが、子どもを危険から守れる道具は咄嗟に動いて子どもを守れない私にとってはとても重宝しました。
おわりに
ーーー最後に一言
20年経っても、意外と覚えているもんですね(笑)
色々とお話していて思うのは、この障害だからこう!脳性麻痺だから、脊髄損傷だから、車椅子だから、杖だから…みたいに決めつけれるようなものではなくて、体にハンディを持ちながら親になる人たちには共通した困難さがあって、それぞれの経験はきっと誰かの役に立つんじゃないかなと思います。誰かのお役に立てれば嬉しいです。私のブログやYouTube(インコメインですが)にも育児の話がありますので、もしよろしければ見ていただければと思います。ありがとうございました。
小川さんのブログ:
Youtube:
まとめ
小川さんありがとうございました。「障害に囚われず、それぞれの経験はきと誰かの役に立つ」と仰る小川さん。
育児の中で、思い描く母親像・父親像をなぞれない。やってあげたいことができない。自分にはどう頑張ってもできないことがあるという事実は変えることはできませんし、多くの障害を持つパパやママがが躓き傷つく点ではないでしょうか。
それを先人たちがどう乗り越えて行ったか、気持ちを切り替えることができたかは多くの人のヒントになることでしょう。
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