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【インタビュー】自分で選んだ道だけど、、、車椅子ユーザーの妻に夫との育児について聞いてみた

車椅子ユーザーの夫と赤ちゃんを育てるのは大変だった。そう語るのは脊髄損傷で車椅子ユーザーの夫と共に5歳になるお子さんを育てる主婦・こぶたさん(36)。核家族で頼る手のほとんどない中である日突然、難病を発症。そんな車椅子ユーザー・核家族家庭の乳幼児期育児を振り返る。

夫の障害:脊髄損傷Th12 下肢全廃で常時車椅子使用 自宅内では日常生活動作は自立 緊急時などは介助を要する ヘルパー等利用なし


自分が倒れたら家族は崩壊する

ーーー車椅子のご主人との育児の中で一番大変だったのはどんなことですか?

こぶた: 一番大変だと思ったのは「自分が倒れたらこの家族は崩壊する」というプレッシャーに押しつぶされそうだったことです。

自分が倒れてしまったら、車椅子の夫がどうやって1人で赤ちゃんのおむつを替え、お風呂に入れ、ミルクをあげるの?抱き上げることもチャイルドシートに乗せることもできないのに。もしも自分が倒れたら、乳児院に預けるしかなくなるの?この家族は簡単に崩壊してしまう。ならば、決して自分は倒れられない。

ですが産後の体って、自分が思っているよりはるかにキツイんです。骨盤は安定せず何か月もぐらついているし、切れた股も引き攣れて動くたびに痛い。赤ちゃんは朝でも夜でも関係なく泣いて、私は寝不足。

満身創痍なのにいつもの家事や介助に加え、赤ちゃんという何としても守らねばならない存在もいる。なのになぜかそれは夫には伝わらない。もう、毎日が必死でした。

ひとりで戦うのは不安で、妊娠中に保健師さんと繋がりましたが、いいサポートの情報は得られませんでした。


ーーー里帰り出産やサポートしてくれる親族は周りにいなかったのですか?

こぶた: 実親とは折り合いが悪く、実家は車で12時間かかる遠方です。またハイリスク妊娠だったので色々鑑みた結果、こちらの病院で産むことにしました。

里帰りをしないことについて、姉からは絶対無理だから帰りなさいと何度も諭されましたが、自分の子どもと向き合わなきゃいけない時期に自分と親との関係で打ちのめされたくなかったのです。また、夫に早く父親として子どもとの関わりを持ってほしかったので、何か月も実家で過ごすという選択は私にはありませんでした。

隣市に夫の実家がありますが、同居の義弟一家にも我が家より半年早く赤ちゃんが産まれていて、義父母が全面的に育児をしていたため、義実家を頼ることもできませんでした。

ですから結局、核家族で自分たち2人で育てていくしか当時の私たちには選択肢がなかったのです。


自業自得だから仕方がない?足りないマンパワー。意識が変わるきっかけは


ーーー2人での育児をはじめられて、どんなことが大変でしたか?

こぶた: とにかく毎日すべてが大変でした。こちらも産後の体で育児家事をしなければならないし、やっと仕事から帰宅した夫に、「ご飯の支度がまだ途中なんだけどちょっとおむつ替えて」と頼んでも、まず子どもをチェンジングテーブルに運ぶところまで私がやらなければ物理的に無理なんです。

そうして替えてもらったと思ったらまた子どもをベビーラックに移動させるのは私です。下手をすれば、手に排せつ物がついてしまい車椅子が漕げません。そうなるともう私が押して洗面台まで運ぶしかなく、結局自分でやるほうが早いんですね。夫が自分でやれるようにもっとサポートできればよかったのですが、私にはそこまでをやる余裕がありませんでした。努力はしましたが、絶対的に時間と体力がたりません。余裕がないんです。

私がご飯作ってる間にお風呂に入れてくれない?なんて我が家には無理な話でした。それでも腰が悲鳴を上げ始め、夫が積極的にお風呂には入れてくれましたが、そこにもサポートは不可欠。私が息子をホールドして旦那が洗う。洗い終えたら息子を私が拭いて着替えさせる。黒子の役目はしなければなりません。

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夫は夫なりにできることをやってくれようとするんですが、結局それを手伝わなければならないので、こちらもストレスが半端ないんです。今それやる?!こっちは今それどころじゃないのに!!みたいな。

もちろん夫も産まれる前はもっと積極的にあれこれやってくれるつもりだったんだと思います。結婚8年目にやっと授かった赤ちゃんで夫も楽しみにしていて、妊娠中から「この抱っこ紐だと使えなさそうだからこんなのがいいと思う」とか、「ベビーベッドだとオムツ替えれないからこういう台を作ればなんとかなるはずだ」とチェンジングテーブルを自作したりしていましたから。

ただ私たちの予想以上に私たちの育児には人手が必要でしたし、それがなかった我が家はてんやわんやで余裕もなく、夫が育児に関わる機会を持たせてあげることがあまり出来なかったんですね。思った以上に赤ちゃんのお世話は彼が1人で出来ることが少なかったし、あまりの余裕のなさで「赤ちゃんのお世話が積極的に出来ないなら家事の方を肩代わりして……」というような役割の転換も出来なかったんですね。彼も彼で、大変だったと思います。

夫もだんだんと「自分がやるよりお前がやったほうが早いから」、「自分が居ても何もできないし」と言って、仕事帰りや休日にバスケに行ってしまうようになりました。

そのことを車椅子バスケをしている知人男性に愚痴ると、彼にも「え?だって俺ら、どうせおってもなんもできんのやから、おるだけ邪魔やろ。ほんならバスケでもしよかーってなるやろ。そういうもんやろ。」と言われ、子どもが熱を出したときに病院に行くべきか一緒に考えてくれるだけでいいのにな…。こっちの服だと暑いかなあ?と一緒に悩んでくれるだけでいいのにな、と思ったのものです。

私の代わりに黒子をやってくれる誰かがいれば、もっと違ったのかもしれませんね。

私だけが大きく生活が変わり、夫は今まで通りの生活を貫いていました。子どもの成長とともに、夫でも対応できることは増えましたが、その頃には子どもも夫も"ママがやるのが当たり前"で、夫がやろうとしても子どもが拒否して結局ママ…。子どもは泣くし、夫は拗ねるし。結果、子どもは「ママ、ママ」と私に懐き、父子の間の溝はその後何年も深いままでした。2人の関係がよくなったと感じたのは息子が4歳を過ぎてからでした。

産後の私が1人ですべてを担うことには限界がありましたが、その声は誰にも届きませんでした。私は自分で車椅子の夫を選んで結婚し、自分で赤ちゃんがし欲しいと望んで不妊治療をして赤ちゃんを産んだわけですから、音を上げるのはいけないこと。自業自得だから仕方がないと思っていたんです。だから大変だなんて、言ってはけないと思っていました。

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それが変わったのは、ある車椅子ユーザーの奥様がブログに書かれた言葉です。「望んで迎えた車椅子の旦那との育児は想像以上に大変でした。」それを見た時、ああ、言ってもいいんだ。口に出していいんだ。私、大変なんだ。言ってもいいんだ。ものすごい衝撃が走りましたね。

それからは頼れる限り周りを頼ろうと思い、通院時のファミサポ利用や支援センターで悩みを聞いていただいたり、市のNPプログラムという完璧な親はいないという子育てのプロブラムに参加したり。

自分一人ではわからなかった保育園の一時預かりの手続きへ保健師さんの同行をお願いしたり、保健師さんに勧められて保育園の入園を決めたりと周りをすこしずつ頼れるようになりました。もう蜘蛛の糸をつかむような、藁をも縋るような気持ちでしたね。何としても倒れずにこの腕の中の子を育てなければならないのですから。


大切なのは人に頼る力


ーーー大変な中に自分なりの打開策を見つけて、周りを頼れるようになっていったんですね。倒れられないと気を張っている中で病気を発症されたのですか?その時どうされたんでしょうか?

こぶた: そうですね。子どもが保育園に慣れ始めホッとした矢先でした。自分の時間もできて、そろそろ保留にしていた資格試験に挑戦しようかと思うんだと保健師さんとの面談で話したばかりだったんです。

保育園から帰宅した息子と遊んでいて、絵本を読もうかと床に寝そべったときでした。腹部に引き攣れたような激痛を感じて思わず飛び起きました。ふとそこに手をやると固いものに触れるんです。帰宅した夫にも触ってもらうと確かにそこにしこりがあって、翌日内科に行きました。そこでは何かあることしかわからなくて、紹介された整形外科でガンかもしれないと言われ、ドクターの前で泣きました。

「ガン家系だし、そういつかなるとは思っていたから、それはいいんだけど今じゃダメなんです。まだ子ども、2歳にならないんです。旦那、車椅子なんです。旦那1人では子ども育てらんないんです。死んでもいいけど今じゃ困るの!!」

ドクターに、「なんで死ぬと思う?僕も今、過去の残念な結果になった例が頭をよぎるけれど、そうならないために今ここに来たんでしょう?検査しましょう。そうならないために」と叱られましたね。

悪性かどうかが判明するまで半年以上かかりました。ちょうどアナウンサーの小林麻央さんが闘病を発表された時期でした。検査やら通院が続いたので急に延長保育をお願いしたり、時には保育園の先生たちが私のメンタルや体調の心配もしてくださって、痛い検査をした後にお迎えに行って息子を抱き上げれずにいたら車まで抱いてくださったり、当時の担任の先生方にはものすごく助けられました。

もっと人を頼っていいのよ。保育園なんてサービス業なんだからもっと頼ってください。本来はお母さんみたいな人を助けるのが保育園よ」

本当に救われました。あの時保育園に入れてなければ…と思うと今でもゾッとします。

その後入院や手術をして、その間、夫は息子をチャイルドシートに乗せられないんで息子を義実家にお泊りさせて、本来1週間の入院を主治医にお願いして最短の3日にしてもらって帰宅しました。

保育園の送り迎えは車に息子を乗せるところまで私がやって、しばらくは夫に送り迎えをお願いしましたが、退院後すぐにまたワンオペ育児が始まりました(笑)

退院して3日目ごろに息子が保育園で熱を出して、お迎えコールが来た時には本当に死ぬかと思いましたが、何とかお迎えに行き、夫が義母に助けてコールをしてくれて義母に息子の通院に付き添ってもらいました。熱があっても元気な息子はベッドの中に居たくなくて遊びたがるのでもう大変でした(笑)

その後オペをして、入院中は義実家に息子を預けました。私は保育園で…と思ったんですが、旦那が無理ということで義実家にお願いすることになりました。今思えばみんなが無理をしてまで保育園に毎日行かせなくても、なんとしても自分たちで!と気負わなくてもよかったのかもしれません。たとえ障害のない夫婦でも、育児は人の手を頼らないと難しいものなのですから。

手術からしばらく経ち、悪性ではないけれど良性でもないという厄介な病気だとわかったんですが、執行猶予を貰ったに過ぎないなと思いました。またいつ「悪性かもしれない」という瞬間が私にやってくるかはわからないのですから。

病気になったこと、車椅子ユーザーと結婚して子どもを授かったことで、人を頼ることを学びました。頼る手はないわけじゃなく、自分がその手を受け入れられるかどうかも大きいポイントなのかなと思います。

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ーーー現在も大変さは変わりませんか?

こぶた:現在は息子も5歳になり随分と自分でできることが増え、物理的なお世話だけが育児ではなくなってきて、育児の中での大変な場面が変わりつつありますね。父子の関係も時間をかけて良くなりましたし、夫も積極的に息子に関わろうとしてくれるようになりました。たまには男同士で出かけたり、2人きりで外食にも行きますし、息子が夫を助けてくれることもあります。

今私が倒れても、まぁなんとか2人でやって行ってくれるんじゃないかな?と思います(笑)


ーーーこれから育児を考えている車椅子ユーザーやそのパートナーにメッセージをお願いします。

育児っておむつを替えたりミルクをあげたりという物理的な部分だけクローズアップして考えがちですが、それだけじゃありません。子どもの予定管理や諸々の調整、服は薄手がいいか厚手がいいか、熱を出したが様子を見るべきかどんな選択肢があるか、こどもの成長に合わせて危険のない室内にするにはどうしたらいいか考えたり、サイズアウトした服を仕分けたり新しいものをネットで注文したり、絵本を読んだり、「ねぇ見て見て!」に返事をしてやったり。

たとえ寝たきりだったとしても「自分にできる育児はない」なんてことは無いなと思います。ですからたとえ障害が理由で育児らしい育児に手を出せなかったとしても、できることをどんどんやっていければいいんじゃないかなと思うんです。積極的に子どもと関わっていくことで、子どもが頼ってくれるし信頼関係も構築できる気がします。

パートナーも「自分が何とかしなくちゃ」と気負い過ぎないで、初期のうちにできる仕事はどんどん投げてしまうといいのかもしれませんね。夫婦は最初が肝心なんて言いますが、育児もそうなんじゃないでしょうか?それから事前に友人や親戚や制度など、どんな手が借りれるかをしっかり調べておくと安心なのかな?車椅子ユーザーも安心して育児ができるような世の中になればいいなと思いますし、そのために自分たちの情報を発信していきたいと思います。


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