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名取さな「ノーゲスト、イン、ザ、テアトロ。」歌詞解釈

はじめに

ライブレポのつもりだったのに

2024/9/19(木)EX THEATER ROPPONGIにて開催された
名取さな 1st Live「サナトリック・ウェーブ」
のね、ライブレポを書いていたつもりが、
本ライブで発表された新曲「ノーゲスト、イン、ザ、テアトロ。」
歌詞解釈部分が膨大になってしまったので、分割して記事にしました。
あと、解釈の都合上、「さなのばくたん。- ハロー・マイ・バースデイ- 」のネタバレも含まれます。

この記事を書いた人の情報(ライブレポからコピペ)

  • 名取さなファン歴6年ぐらい、

  • 強火ファン歴1年半(ハロー・マイ・バースデイ以降)

  • クラブミュージックの界隈に出没したりしなかったり

  • ブルアカのアレンジ同人音楽サークルの主宰をやってる

  • 生音のライブ参加は5~6回目?

  • 生音かつスタンディングのライブは5年ぶり(ひなビタ♪ SSM 2019以来)

タイトルの解釈

まず、タイトルの解釈ですが、大きく二通りあり、同時に採用可能だと思います。

  • 文字通り、劇場には「観客」がいない。

  • 観客であった患者服の名取は、今や名取さなと統合され、少なくとも純粋な観客とは言えなくなった。劇場にはもはや演者しかいない。

これ以外にも名取さなが劇場から去ったという解釈もできないことはないですが、ウソをつきとおすこと/演じることを肯定したハロー・マイ・バースデイの結末や、MVに患者服の名取が登場したカバー「地獄でなぜ悪い」の歌詞"嘘で何が悪いか", "作り物で悪いか" と全く整合的でないので、個人的には採用しかねるところです。"作り物だ世界は"とも整合させたく、そうすると劇場から出るというよりは世界は全部劇場みたいなモンだろという考えのほうがよさそうです。変な考え、と思う人もいるかもしれませんが、ネルソン・グッドマンの世界制作論やラトゥールのアクターネットワーク理論(これは名取が実況してたInverted Angelの影響で調べた)に魅力を感じている私にとっては、作り物でない(構成されていない)ナマの世界/劇場ではない現実、が「実在する」という前提がそもそも間違っていると感じられるので、むしろ自然な発想です。

私のハロー・マイ・バースデイ(以後HMB)の解釈を読みたい人がいればこちらをどうぞ、長すぎだし、1年半前なので今と変わってるところもあるかもですが……。

文字通り、劇場には「観客」がいない。
ひとつめの解釈は文字通りのものです。
我々名取さなのファンはテアトロ名取の「観客(ゲスト)」でしょうか?
私は違うと思います。
まず、観客は劇の内容に影響を及ぼすことはできないはずですが、私たちは名取さなと交流することで、劇の内容に影響を与えることが可能です。
1年半前、その行き着いた先がHMBの結末だったはずでしょう。
次、さなちゃんねるのチャット欄に書き込んでいるときは、あなたは素のあなたでしょうか?そうではないでしょう。さなちゃんねるのチャット欄にふさわしい、さなちゃんねる王国民を少なからず演じているはずです。また、ライブに赴いたときの丁寧で・馴れ合いを行わないあなたは、必ずしも素のあなたではないでしょう。我々は名取さなが大好きだからこそ、
「せんせえ」を演じているといえましょう。

これら二つの意味で、私たちは観客ではありません。

観客であった患者服の名取は、今や名取さなと統合され、少なくとも純粋な観客とは言えなくなった。劇場にはもはや演者しかいない。
ふたつめの解釈は、ハロー・マイ・バースデイのゆびきりをつたえての演出を踏まえたものです。患者服の名取とナース服の名取が光に包まれて合流する、あの演出です(思い出すだけで泣きそう)。この曲の作編曲・作詞をばくたん。のOPを担当されてきた鹿あるくさんが行っていることも、勘定に入れたほうがいいでしょう。また、その前の患者服の名取の独白シーンの一部を見てみましょう。

ナースは患者さんに元気になってもらうために頑張らないといけないのに、
自分ばっかりいつも楽しんでいて……
憧れてるだけなんです。

さなのばくたん。- ハロー・マイ・バースデイ - より

この語り口はよく考えると不思議です。患者服の名取がナース服の名取さなを演じていると考えると、その割には他人事のようです。さきほどと同じく「観客」を劇の内容に影響を与えない観測者だと定義すると、(HMB以前の)患者服の名取の自認はむしろ観客の側であると考えることができます。実際、それまで患者服の名取の物語とバーチャルナースの名取の物語は交わっていなかったのですからね。HMBで患者服の名取とバーチャルナースの名取は同一の存在だと認めたので観客がいなくなった。これがノーゲストと思うことはできます。

二つの解釈を同時に採用することを前提に歌詞の方を見ていきましょう。

歌詞の解釈

歌詞解釈

描いていた。ずっと見えないままだった。
歌っていた。小さな狭い箱庭。
歩いていた。とっても寒い夜だった。
揺らいでいた。うっすら白い空は心奪ったんだ。

ノーゲスト、イン、ザ、テアトロ。

ここは、HMB前の患者服の名取の感情を情景として描写したものと考えてもいいのですが、私としては患者服の名取=バーチャルナースの名取の感情と考えたほうがいいと思っています。だって、少なくとも歌でなら、もう名取は暗い感情を「名取さな」のものとして表出するのを恐れていません。だから、私個人としては別存在の患者服の名取とバーチャルナース名取の対話のように解釈したくはないです。
ただ、どちらに寄っているかは考えていいと思います。
重要そうなのは「うっすら白い空」ですが、これは直接には夜明けのことだと解釈しました。「白む空」という夜明けの表現がありますからね。

深く息を吐きだした。

ノーゲスト、イン、ザ、テアトロ。

息の色には触れていませんが、先に「とっても寒い夜」という描写があるため、冬の白い息が出る情景が自然に浮かんできます。

夜明けの白む空を憧れの象徴と考えると、心奪われたそれと同じあるいは近い色のものが自分の中から出てきたところを名取は見たのだと思います。これは、患者服の名取とば~ちゃるな~す名取の統合が進んでいることを示す一つの場面なのだと思います。

ただ悔しくて、寂しくて、もどかしい日々を味わうよ。
この苦しみと、悲しみの根拠なんかさ、知らないけど、
あの嬉しさも、楽しさも、幸せも、かけがえはないから。
世界にひとつの存在を信じている、わかってあげる、わかってあげる。
ずっと歩き続ける、この愛と。

ノーゲスト、イン、ザ、テアトロ。

次の部分で出てくる「問いかけ」は「この苦しみと、悲しみの根拠」って何?ってことなのでしょう。名取さなはそれを「知らないけど、」と切って捨て、「あの嬉しさも、楽しさも、幸せも、かけがえはないから。」と歌い上げます。(ここの一気に明るくなる感じが本当に好き。)
「世界にひとつの存在を信じている、わかってあげる、わかってあげる。
ずっと歩き続ける、この愛と。」、これは名取さなの患者服名取も内包した自分自身に対する語り掛けだと思うのが自然です。また、「この愛」は自分自身に対する愛情だと解釈するのが自然ですよね。

そうだった。結局、一人きりだった。
そうだった。空虚な問いかけだった。
とっくに気付いていた。嗚呼!

ノーゲスト、イン、ザ、テアトロ。

やや患者服名取にマインドが寄っている部分です。
「ひとつの存在を信じている」ということは、裏を返せば、
「結局、一人きりだった」ということを認めるということ表裏一体です。
また、「この苦しみと、悲しみの根拠なんかさ、」を「知らないけど、」と切って捨てることは、その「空虚な問いかけ」に悩んだ日々の価値を棄損することでもあります。
自己肯定などというものの、如何ともしがたいままならなさを、一筋縄ではいかないことを、表現しているのではないかと思います。
「とっくに気付いていた。嗚呼!」はこの部分の2つの「そうだった」に対するものですが、HMBにおいて、の別世界線の名取の悩みを解決することが、名取自身の悩みを解決することにつながっていたと気づくという展開を強く想起させます。これは次の部分の解釈に使います。

どれだけ後悔しても、たまには失敗しても、大事な宝物 見捨てないで。
どれだけ疲れても、とにかく真剣だけど、届かない感情はもう諦めようかな。

ノーゲスト・イン・ザ・テアトロ。

解釈が難しい部分です。とくに「届かない感情はもう諦めようかな。」の部分にはギョッとさせられます。だって、名取が届けようとする感情を、できるだけ受け取りたいと思うからです。

といった風に、この部分からは名取自身への語り掛けというよりは、我々への語り掛けのように聴こえがちなので、素直にそう解釈します。
「とっくに気付いていた」ことに気付いた後に、HMBのストーリー展開では「新しい約束」、ゆびきりをつたえて、が続きました。
あれは約束を結ぶ相手=せんせえがいることが前提になっていました。
HMBの同型をなぞると考えると、この部分からはせんせえ=ゲストではないわたしたちがいると解釈するのはやはり自然です。

「どれだけ後悔しても、たまには失敗しても、大事な宝物 見捨てないで。」ここは名取自身への語りかけであると同時に、私たちへの語り掛けでもあると解釈します。「大事な宝物」は「かけがえがない」とここまでに語られたことに加えて、「世界に一つの存在=名取さな」のことでしょう。
「あの嬉しさ」は活動を通してせんせえと作った思い出たちと解釈します。単純化のために、「大事な宝物」が名取かせんせえ(略記)を指すと記述すると、4つの解釈が考えられます。うぬぼれるなよ(怒)

  • ①名取が名取を見捨てないで、と名取自身に語り掛けている

  • ②私たち(せんせえ)に名取を見捨てないで、と名取が私たちに語り掛けている

  • ③私たち(せんせえ)がわたしたち自身を見捨てないで、と名取が私たちに語り掛けている

  • ④名取が私たち(せんせえ)を見捨てないで、と名取自身に語り掛けている

これらの解釈を全部採用しても問題ないのではないでしょうか?相互に矛盾はしませんし。①は自分を奮い立たせる文として自然です。
②はゆびきりをつたえてのこの部分を見てから考えましょう。

ねえ 私がどんな人になったとしても
変わらず いてくれるんでしょ?
優しくなれないような時でも

ゆびきりをつたえて

「変わらずいてくれるんでしょ?」は疑問形です。確信ではありません。
名取には見捨てられ不安がある、と解釈していいと思います。
たぶん……。
これは確かに相当暗い感情です。

③。これは微妙に文脈からはずれますが、私たちが名取の生き様に勇気をもらっているのであれば、一つ目の名取が名取自身を見捨てないでと鼓舞する姿を、心の支えとして私たち自身を鼓舞することは、なんならいつもやっていることではないでしょうか。

「どれだけ疲れても、とにかく真剣だけど、届かない感情はもう諦めようかな。」の部分。ここ本当に難しい。
名取は届かない感情を諦めてしまうような人ではないし、私たちは名取が届けたいと思っている感情はできるだけ受け止めたいと思っているはずです。
また、「いっかい書いてさようなら」は伝えたいことを伝えるための名取の真摯な取り組みを描いた曲でもあったはずです。

とはいえ、やっぱり伝わらない!と投げ出したくなるときもあるのかもしれません。そこで先ほど行ったひとつ前の文の解釈④、「名取が私たち(せんせえ)を見捨てないでと、名取自身に語り掛けている」が出てきます。
一見、一番不自然な解釈にみえますが、こことは整合的です。
う~んこれも相当かなり暗い感情ですね。

でも(これらの解釈が合っているとすれば)歌を通じてこんな暗い暗い感情を吐露してくれるというのは、信頼の証として受け取りたいです。

ただ温もりと、まどろみと、優しさに、この身を委ねた。
あの憎しみと、強がりの真意なんかは、言えないかな。

ノーゲスト・イン・ザ・テアトロ。

温もりと優しさは、名取のことを好意的に解釈しようとし、名取を好きがゆえ、さなちゃんねる王国民を演じているわたしたちのものだと思います。
まどろみは、届かない感情を自分の力で伝えることを一度棚上げにして眠り、私たちに解釈を委ねるというふうに解釈しました。「あの憎しみと、強がりの真意」を言わなくても、届くかもしれない。普段は精緻に伝えたいことのために言語化と推敲を繰り返す名取さなが、ときにはそれを手放して、私たちに受け止めかたを委ねてくれている。そう解釈すると、私たちは本当に強い信頼を寄せられていることになります。あるいは私たちがゲストではないと認めているから、委ねてくれているともいえるでしょう。

急に自分語りパートに入りますが、
私はこの強い強い信頼に応えられるか、正直不安です。人の気持ちがあまりわからないほうだと自認しているし、というか信頼を寄せられること、それ自体に慣れていません。だからこそ、この曲が強く心を打つのです。

この苦しみも、悲しみも、虚しさも、かけがえはないから。
私が解き放つ輝きと光はきっと、ずっと、失ったりしないから。

ノーゲスト・イン・ザ・テアトロ。

こんな力強い詩がね……。
苦しみ、悲しみ、虚しさを自分のかけがえのないものとして、
「私が」解き放つ輝きと光。
これは前半の「深く息を吐きだした。」の解釈で、心奪われた光は、自分の中からも出てきたものだったのだと気づく、としましたが、ここで初めて一人称が出てくることは特筆すべきだと思います。
この、この曲で一番力強い詩で、輝きと光が暗い部分をふくめた自分に由来するものであることを認め、それはきっと不滅のものだ、と言っています。以前の自己評価が低いように見える名取から考えると、これは本当に大きな成長なのだと思います。

その愛を頂戴よ。この愛と生きる。

ノーゲスト、イン、ザ、テアトロ。

名取さなは、本当に、すごくすごく愛されている存在です。
自分を含めた集団?のことをほめるのはむず痒いし、もっと謙遜しろという気持ちになりますが、ライブではあの人数が名取の願いに応えて(いや~?宮地さんのためやが?) 体臭ケアをし、スタンディングなのに詰まらないで、銀テを分け合い、馴れ合いはしない。それなのにライブ中はノリよくヤジを飛ばし、コールを送る訳です。
むせ返るような愛。こんなファンの集団はほかに見たことがありません。
また、かかわったクリエイターをはじめとする関係者が次々に名取のファンの列に連なる様も、ほかに類を見たことがありません。

にもかかわらず、名取自身はその自己評価/自己愛の低さゆえか、好意・愛や高評価を素直に受け取ることが苦手であるという印象を、私は受けていました。

その名取が、「その愛を頂戴よ。」「この愛と生きる。」と言うわけです。
もう、感無量としか言いようがないよね……。
名取さなの放つ輝きと光が失われることはないでしょう。

この変化には本当に本当に勇気づけられてぇ……。
私も自分への期待や信頼を正面切って受け止めたい……。
ほんとに苦手だけど、いい加減できるようにならないといけないし、
まぶしすぎるけど、その手をとりたい、、、、。

この歌詞解釈は、読み終わったら投げ捨てなければならない

 ここまで書いていて何ですが、、、、、
これを名取さな自身のキャラクターソング、あるいはさなちゃんねるのリスナーも含めた名取さなというコンテンツ(あるいはテアトロ)を描いた曲と解釈することそれ自体がこの曲の解釈の幅を狭めています
実際名取はライブMCで、かなり暗い感情を描いているけど、この曲を聴いてやっていくぞ、という気持ちになってほしい、といった趣旨の説明をしていますし、セルフライナーノーツもおおよそそんな感じです。

 よってこの曲を、私やこれを読んでいるあなた自身について歌われた曲、あるいはわたしたちを名取が応援してくれている曲と考えることだって可能どころかそれが正統な読みでさえあるのだと思います。

別にわたしたちの営む劇場にアクターとして名取がやってきたと思ったっていいじゃないですか。悔しくて寂しくてもどかしい日々を味わっているのは我々のほとんどだってそうのはずだし、「なりたかったわたし」をつかみに行くのは名取だけの特権だけじゃないし、わたしたちが自身にとっての「なりたかったわたし」となって輝きと光を解き放ったって別に構わないし、ちゅっちゅでなくとも名取の愛を頂戴しに会場に来たんでしょうが。なんなら、名取さなというコンテンツの文脈を一切抜きにして解釈したっていい。

この曲への輪郭の与え方が何通りもあったってかまわないじゃないですか。

あなたが望む輪郭を与えてください。
わたしは、名取さなというコンテンツの文脈に沿って輪郭を与えることが、
自分にとって一番「やっていくぞ」という気持ちになるのでそうしました。

永遠の光

追記

M3-2024秋で鹿あるくさんに直接ありがとうを言えてよかった~~~~~
こんなに言葉を尽くして語ってても、本人の前に行くと、ありがとう以外の言葉が出てこないので人間不思議なモンですよね……。

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