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ふるさとを離れて15年~地元を離れてからの時間のほうが長くなる30歳の私がいま思うこと~
1994年生まれの私は、現在30歳。
中学校を卒業した2010年の3月に、地元栃木県から南関東へ引っ越しました。
つまり、いまは人生の中で、地元で過ごした時間と地元を離れてから過ごした時間がちょうど同じくらいの時期にあたります。
そして今後は、地元を離れてからの時間のほうが、人生の中で多くを占めるようになります。
これを機に、生まれ育ったまちのことやふるさとへの思いを、ここに記しておこうと思います。
地元に帰りたくて、毎日泣いていた高校時代
2010年に南関東へと引っ越した私は、中高一貫校の高等部に入学します。そこは、それまで地元の公立小中学校で学んできた私にとって、まったくの別世界でした。
入学式の直後に実施された健康診断で、私は緊張のためか血液検査中に吐き気とめまいで動けなくなりました。しかし、入学したばかりでまだ友達もいなかった私に気づいてくれる人は誰もおらず、その場に倒れたまま天井を見ていることしかできませんでした。
そのとき、私のほかにもう一人体調不良で動けなくなってしまった女の子がおり、小柄な彼女が先生に抱きかかえられて救護室に運ばれていく様子を、私は床に倒れたまま、横目で見送った記憶があります。
しかし私は大柄だったためか、その場から動かしてもらえず、先に実施された女子の健康診断の時間が終わり、男子の健康診断が始まっても体育館の床に寝かされていて、とても恥ずかしかったのを覚えています。それが、私の高校生活のはじまりでした。
その後も、田舎育ちの人間が数において帰国子女よりも珍しいような環境に、私はなかなか馴染むことができませんでした。
プールの時間にクラスメートから、「栃木出身だったっけ?栃木県って海ないよね?泳げるんだ!」と言われたときには「栃木にもプールはあるからね、泳げるよ」と笑顔で返したのですが、バカにされているように感じて(いま思えばたぶん彼女にそんな気はまっっったくなくて、何気ない会話のひとつだったのだと思います)とても悲しかったです。
そんな私はいつの間にか、学校からの帰りに小金井行や宇都宮行の湘南新宿ラインを見かけると、自然に涙があふれてくるようになっていました。
生まれ育ったまちに帰りたくて帰りたくて仕方がありませんでした。
中学卒業時にメアド交換をした中学校時代の友達から送られてくるメールや、時々届くお手紙だけが心の支えでした。
書くことで昇華した、ふるさとへの思い
中学時代までのような明るさを失い、学業と部活をどうにかこなす暗く苦しい毎日を送っていた私に、転機が訪れます。高校1年生の冬、入学からすでに1年近くが経過していました。
当時クラスで仲がよかった友達の一人が、校内の文芸誌の存在を教えてくれたのです。それは、選択科目でとある授業を履修している生徒が原稿を寄せ、その授業を開講している先生が中心になって年に数回発行されている雑誌だったのですが、外部投稿という形で、その授業を履修していない生徒でも、原稿を提出することができるとのことでした。
彼女は国語の授業の際に私が書いた文章をとても好きだと言ってくれ、外部投稿の制度を利用して文章を送ってみてはどうかと勧めてくれたのでした。
当時の私は数か月単位で続く原因不明の咳(いま思えばきっとストレスが原因でした)や夕方になると微熱が出る症状に苦しみ、それをなかなかまわりに言えずにいました。そんな状況を変えるためにも、早く新しい環境に馴染まなければともがき、そのたびに断ち切れないふるさとへの思いが胸いっぱいにあふれてきて、涙が止まらなくなっていました。
私は、いっそここで存分に、15歳まで自分を育んでくれたふるさとへの気持ちを文章化して吐き出そうと決めました。そのときに考えたペンネームが、いまこのnoteで使用している名前、寺内温子です。
ペンネームの由来については、こちらの記事にも書いています↓
当時連載していた小説のあとがきを、高校生だった私はこのように綴っています。
ふるさとを離れてみて、そして、去年の国語表現の授業で原風景について考えてみて、私ははじめて、文章、絵、そして生き方に至るまで、自分を構成するものの原点は、すべて生まれ育ったまちにあるのだと気づきました。高校生になってからのたくさんの出会いと新しい経験の数々は、それを土台として私の心の上に積み重なっていっているような感じがします。これから先も、小さい頃に感じていたことを忘れずに生きていくためには、活字として残すほかないと思い、ペンをとりました。大事なふるさとのことを、私はどうしても大人になる前に書いておきたかったのです。
こうして連載を始めた小説には、有難いことに読者からたくさんの感想をいただきました。執筆をはじめてからは、湘南新宿ラインを見ても泣かなくなりました。もう地元に戻って生活することはできない、でも大事なふるさとへの思いは心の中に大切に灯して、いまいる環境で精一杯生きよう。文芸誌は私にとって、そんなふうに気持ちを切り替えさせてくれた大切な居場所でした。
文芸誌の発行者であった先生には在学中授業でお世話になったことは一度もなく、それどころか直接言葉を交わしたことすら、ほとんどありませんでした。しかし先生はいつも、私が投稿した原稿を丹念に読んでくださり、心のこもったお手紙をくださいました。そのときいただいたお手紙は、いまも私の宝物として、手元に大事に保管しています。
いただいたお手紙の中に、こんな一節がありました。
寺内さんは読書という”頭”のみで行う体験だけではなく、”体全体”を使って行う体験も他の生徒より、はるかに多く味わってきたのではないかと想像しています。そういった積み重ねがなければ、これだけの作品は書けないだろうと思うのです。
この一節は、先生から贈っていただいたお言葉の中でも、もっとも嬉しかったもののうちのひとつです。なぜなら私が体全体を使って行う体験をたくさん積み重ねることができたのは、愛するふるさとのまちがそれができる環境だったことにほかならないからです。
私のふるさととは別のまちを地元として生きていく娘たちへ
人生の中で、ふるさとを離れてからの時間のほうが長くなる今年、時々ふと想像することがあります。もし私のふるさとで育児をしていたら、自然と触れ合い、体全体を使って行う体験を、もっともっとさせてあげられるのかな、と。
2人の娘を育てていて思うのは、人の性質気質というもののほとんどは、生まれ持ったものであるということ、そして親としてしてやれることは実はとても少なく、親の教育よりも周囲の環境のほうが圧倒的に影響力があるということです。
当然、生まれ育つまちがどんな場所なのかということも重要になってきます。緑豊かな場所なのか、都会の一等地なのか。住宅街の中なのか、それともタワマンの高層階なのか、はたまた隣の家まで何十メートルも離れているような山間の集落なのか。
どこに住むのかという問題には正解がないからこそ、親としては悩みます。
でもきっと、何十年か先には、いま住んでいるこの場所が、娘たちにとっては大事なふるさとになっているはずです。私のふるさとが、私にとってかけがえのない大事な場所であるのと同じように。
どんなに長い時間離れていたとしても、そしてもう生活の拠点を戻す予定がないとしても、心を寄せるだけであたたかい気持ちになれる場所を、人はふるさとと呼ぶのかもしれません。
親の都合で引っ越しを経験させてしまうとは思うけれど、娘たちに心のふるさとをしっかりつくってあげること、それが親としてのつとめのひとつではないかと、いまの私は考えています。
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