セカイ系に憧れる
『新世紀エヴァンゲリオン』は人間の埋められない孤独さを描いた。自分と他人の間には隔たりがある以上、互いのすべてを分かり合うことなど叶わぬ夢なのだ。『the End Of Evangelion』で主人公の碇シンジは自他の境界があるこの世界を選び、人類補完計画は未完に終わる。そしてエヴァンゲリオン新劇場版の完結編『シン・エヴァンゲリオン劇場版』では、各登場キャラクターたちが自分とは異なる他者の存在を受け入れ、成長を遂げて幕を閉じた。
確かに人間は元来孤独な生き物である。けれども常に孤独の渦中に立っているわけではない。他人と、すべてではないにせよ、わかり合う瞬間は存在する。それでもなぜだろうか。人と談笑をしていても、お酒を飲んでいても、一緒に何かをしていてもふとしたときに寂しさを感じてしまうのだ。
なぜかはよくわからない。でもその一つの理由は、結局今話している人にも他に親しい人間がたくさんいてぼくはその内の一人にすぎないんだな、という意識を強く持っているからなのだろうと思う。どこまでいっても自分はこの人の人間関係を構成するただの1ピースでしかないんだと話すたびに感じる。だからあまり本音も話せない。相手からすれば自分はいつでも関係を切って使い捨てられるような人間なのにそんなかしこまって大真面目に悩みを打ち明けてもただ虚しくなるだけだ。ただスマホを捨てれば消えてしまうような関係性。
話は変わるが、サブカルの物語のジャンルに「セカイ系」と呼ばれるものがある。2000年代に生まれたいわゆるバズワードで明確な定義は存在しないのだが、次の説明が比較的浸透しているようだ。
ここでいう中間項とは本来あるはずの社会や国家のことで、セカイ系の物語ではそれらがとりわけフォーカスされることなく主人公たち-世界の関係性のみが描写される。セカイ系作品として有名な3作には『ほしのこえ』、『最終兵器彼女』、『イリヤの空、UFOの夏』がある。ちなみに『ほしのこえ』しか観たことがない。『新世紀エヴァンゲリオン』や『天気の子』などもセカイ系の要素を含んだ作品になると思う。
自分はまあ、セカイ系が好きだ。他の誰にも干渉されない「きみとぼく」だけの世界というものにまず憧れてしまう。ふたりの関係性が世界の危機と結びつくなんてとてもロマンチックじゃないか。実際に起こったら困るけど。でも未だにこういう展開に憧れを抱いてしまうのが自分の未熟な精神性と肥大化した自意識ゆえだと思うとなんだか情けない気持ちになる。