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裂けた動脈(後編)
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効いてない気がしてならない局所麻酔の後、それほど間を置かず頸静脈に極太の点滴針を挿し込む本処置が始まった。麻酔注射に引き続き処置を担うのは女優の池脇千鶴をものすごく頼りなくした感じの若い医師だ。注射もなんだか手際が良くなかった。四肢は完全に押さえ込まれたままなので局所麻酔された首をさわって感覚の有無を確かめることもできない。
僕は10代と20代のころ3回ほど切開処置を受けたことがある。口腔外科で歯茎に深く埋まったうえ真横に生えていた左右の親知らずを除去した2回。右目の目蓋にできた良性の腫瘍を除去した1回。いずれも局所麻酔だった。
少ない経験上だが局所麻酔は完全に痛覚が麻痺するわけではない。仮に麻酔をしないで外科処置を受けた時の痛みを10とすると、麻酔後の痛みは1〜2になるというところだろうか。1〜2まで軽減するなら文句を言うなと思われそうだけれど、1〜2だって相当痛い。若く未熟で自らの辞書に「耐え忍ぶ」という文字が無かった過去3回の外科処置はいずれも泣く、喚く、叫ぶの大騒ぎだった。
局所麻酔のときよりも更に覚束ない手つきで点滴針が首に穿たれようとしている。滅菌シート越しの千鶴が真顔過ぎて怖い。真顔が怖いのと現実逃避とで顔を反対側に背ける。
どうも針がなかなか頸静脈に入らないようだ。これは血管が見つけにくく採血や点滴を何度もやり直されてしまう人ならわかる感覚だろう。自分の首を鏡で見てほしい。かなり皮膚が薄く体脂肪が少ない人でも頸静脈が首に浮き出ることは稀なのではないか。目視できない状況下で頸静脈へ針を穿つ手技にはそれなりの経験が必要なのだろう。
針の抜き差しが3回繰り返されても処置が完了しない。千鶴は顔面蒼白になっている。僕は両腕を吊し上げられて割竹で殴打され気絶すると水を顔にぶっかけられる時代劇の拷問を受けた後みたくなっていた。
不惑をとうに過ぎた中年男が泣き叫ぶのも見苦しいと思い、必死に針の痛みとなかなか処置が完了しない苛立ちに耐えていたがそろそろ限界が近づいていた。千鶴の後ろに控えていた教育係もさすがに処置に時間がかかり過ぎていると判断したのか千鶴の後ろから指示を出しはじめた。「ちょっと角度が浅いね。45°くらいで」 「あと5ミリ手前にして」 わかってるならオマエがやらんかい!悪態が奥歯まで出てくる。
4回目でやっと針が頸静脈へ差し込まれたようだった。固唾を飲んで処置を見守っていた医師と看護師たちから安堵の空気が漏れる。千鶴は膝から崩れ落ちかねないくらいの状態だった。
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この1日後に僕はHCUを出て一般病棟に移った。首に穿たれた点滴は3日で外され、入院期間の後半は安静と療養、つまり寝ているだけだった。循環器系の疾患で外科手術もしておらず、入院患者としては若年なので食事は制限なしのフルスペック。毎回美味しいご飯を食べられた。
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間過ごした特別個室。大物政治家気分を味わえた
7年経った現在、予後は良好だ。再発のリスクも少ないようなので通院もしていない。ただ、生命の危険にさらされる大動脈乖離から生還した人の10年生存率は40%だそうだ。10人中4人しか10年以上生きられないという厳しい統計がある。
僕が罹患した上腸間膜動脈乖離(大動脈乖離を伴わない)は症例が非常に少なく、臨床像には不明な点も多いらしい。10年生存率をはじき出せるほどのデータがないのだろう。でも僕は既に7年は生存しているわけで大動脈乖離などと比べればやはり軽度な血管の疾患なのではないか。そうであってほしい。
100歳まで生きたいわけではないけれど、あと3年で死ぬのは嫌なので引き続き減塩醤油を使っていこうと思う。