蝕に流された彼女、そして饕餮(ごうらん)は天に向かって吠えた
生きている、目が覚めたとき、目に映ったのは天井だ、もしかして、ここは日本だろうか、戻ることができたのかと思ってしまった、だが、落ち着いてと自分にいい聞かせる。
ゆっくりと体を起こす、背中がじんじんと傷む、だが骨折や大きな怪我をしているというわけではなさそうだ。
崖から落ちたのだ、あのとき、悲鳴が聞こえた気がした、雷鳴が響き、雨が激しく降って、天災だと思った。
蝕だ、また巻き込まれたのだ、だが、生きている、死にたくないと思ったのだ、あのとき、嬉しい、自分は生きていることに安心した。
「気がついたかね」
ドアが開き、入ってきたのは小柄な白髪混じりのだ、気分はどうかねと聞かれてもすぐには答えるこができなかった。
「もしかして、言葉がわからないのかい、私の言うことは、わかるかね」
ゆっくりと頷くと男は安心したように、お腹は減ってないかい、何か食べるかいと聞いてきた。
目の前に出されたのは暖かいスープとパンだ。
食べても大丈夫と思ってしまった。
この男性は信用できるのだろうか。
信じるな、裏切られたらどうする、親切なふりをして騙そうとしているのかもしれない。
今までのことを思いだす、海客だと言われたときは意味がわからなかった。
陽子ちゃんに会うまでは。
もし、薬、いや、毒が入っていたらどうする、だけど空腹には耐えられなかった。
ちぎったパンを口の中に放り込み、スープを飲む、口の中、喉の奥、胃の中が温かくなる、美味しいと感じる、ほっとした。
食べても大丈夫だと思うと同時に情けなくなった。
見ず知らずの他人の好意を最初から疑ってしまう自分にだ、情けないと。
騙されたら、もし殺されるようなことになったら、そこまでだ、寿命は終わりだ、終着点まで来てしまったのだ。
そう思えばいい。
私もそうだった、思いだしたのは彼女の言葉だ、何もわからず王となるまで色々とあったことを話してくれた、人に騙され、追われたこと。
ここでは一人だ、助けてくれる人はいない、先が見えない、しかし、だからといって絶望してどうなる。
「スカー君、久しぶりじゃないか」
最初はイシュヴァールで医師として働いていたマルコーだったが、国も少しずつ良くなってきた。
そんなとき、もう一度、軍の医療部で働いてくれないかという打診は突然の申し出といってもよかった。
賢者の石を人間の命を使わずに作りたいと言われたのだ、ロイ・マスタングの申し出に悩んだが、受けてくれるなら、医師の派遣をすると言われ、悩んだ末、受けることにした。
錬成陣の手法を使えば石を作ることができるのではないか、自分がいなくてもと思った、だがセントラルに行き、詳しく話を聞くと最初はできていたという。
ところが数ヶ月前から異変が起きた、作った石が消えてしまうのだ。
もしかして盗まれたのかと思ったが、簡単に盗まれるような場所に保管しておくわけがない、では軍の内部の者の仕業ではと思ったが、調べていても、そんな人物は出てこない、理由がわからないのだ。
「マルコー、あの女、まだいるのか」
尋ねて来た傷の男、スカーの言葉に頷きながら、マルコーは尋ねた。
診療所を兼ねているが、名目上は軍の敷地内の一部でもある、一般人がいることが気になるのだろうか。
「いつまで、ここにいるんだ」
「スカー君、彼女は」
外国人、かなり遠いところから来たようだ、だから、落ち着くまではと言葉を続けた。
「追い出したら、どうだ」
不意に男の声がした。
驚いて振り返ったマルコーが見たのは小柄な男の姿だ、いつのまにと思ってしまった。
「追い出せと言ってるんだ、そうだろう」
小柄な男はスカーを見ると笑った。
「どこから来たのか分からない、身元も分からない怪しい人間、そうだろう」
スカーはじろりと睨んだ、普通の人間なら、この男の視線に怯んでしまうだろう、睨まれただけで逃げ出したくなるかもしれない。
だが、そんな様子も素振りも見せない。
「あの女は海客だ、追い出しても、おまえに非はない」
「カイキャク、彼女も自分はそうだと言っていったが、何か意味があるのかね」
「蓬莱から流れて来た人間のことを、そう呼ぶ、災いを呼ぶからだろう」
ははは、おかしそうに小男は笑いだした。
「昔から言われてる、天災、触が起きるのは海客のせいだとな」
マルコーは小男をじっと見た、だが、ゆっくりと首を振ると違うだろうと呟いた。
「何故、そう思う」
小男は驚いたというより、疑問を覚えたようだ。
「その言葉を信じている者もいるかもしれない、だが、君の言葉は、まるで違うように聞こえるんだが」
沈黙がしばらく続いた。
人間にしては利口だな、独り言のような呟き、だが、普段の人間を小馬鹿にしたような響きではなかった。
「忠告だ、蝕に巻き込まれ妖魔がこちらに来ている、饕餮(ごうらん)だ」
言葉が途切れた。
「一説には天帝を(噂だろうが)いいか」
小男は逃げろと言い残し姿を消した。
がりっ、がりっ、硬いものを砕くような音がして、それは口の中で砕けると喉の奥に、胃の中に収まった。
ここでは食べるものがない、最初は人を食べようとした、だが、感じたのだもっと美味いものがあると。
どこにあるのか探し回った、地の中に潜り、空を飛び、ようやく見つけた。
それは赤く光っていた。
口の中に入れて、噛み砕く、自分の勘は正しかったことを知った。
空腹と飢えが満たされたあまり、饕餮は吠えた。
天に向かって。