鍋とやかん。
今回は場づくりをするにあたっての、仕掛けの話。
鍋とやかんを使った、仕掛けのひとつの話です。
1割の計画(仕掛け)で9割の偶発的な出来事を導く、自分の場づくり。多様な人が集まり交流し、出会いから共感と展開を生むような場には、そのための仕掛けづくりが欠かせません。
住み開きの古民家「ギルドハウス十日町」には、実に100以上の仕掛けを施してあります。なかには、自分がオープン当初から施しているものもあれば、これまでの1年10ヶ月の日常のなかから作り上げてきた仕掛けもあります。
さて、「鍋とやかん」についてですが。
ギルドハウス十日町では冬期に入ると灯油ストーブを炊き、その天板にやかんを置いてお湯を沸かしています。キッチンのガスコンロを使わずとも、部屋を温めながら、飲みたいときにいつでも熱いお湯が飲めるので便利です。
そこには、もともと2つのやかんを並べて置いてありました。なぜ2つかというと、住人やらゲストやらが多く、ひとつだと足りないからでしょう。
ですが、あるとき、やかんがひとつしかないことに気づきました。
どうやら、うちの住人のひとりが、やかんをひとつ自分の部屋に持っていってしまったようなんです。
やれやれ、と思いましたが、たぶんその住人もやかんがないと困るだろうと思って、自分は考えました。
そこで、またひとつ、日常のなかから、新しい仕掛けを思いついたんです。
それが、「鍋とやかん」でした。
残ったやかんのとなりに、鍋を置いたんです。その鍋にも水を入れておけば、灯油ストーブの熱でしだいに熱いお湯になります。
そして、みんながやかんのお湯を飲んでいくにつれて残り少なくなれば、となりの鍋からやかんにちょっとずつお湯を移して補充するという仕組みです。
さて、そんなことが、なんで場づくりの仕掛けになるんでしょうか。
まず、鍋からお湯をコップに注ぐひとは居ません。
ほとんどがやかんから注ぐでしょうから、いちいち「鍋からやかんにお湯を補充してね」と言い含める必要がありません。
はじめは「この鍋は何だろう?」となったり、そもそも鍋のことなんか気にもしなかったひとも、ほかの誰かがお湯を移しているのを見て、自然と理解していくようです。
これがやかん2つあったときは、みんながどちらのやかんからもお湯を注いでていくので、へたをすると両方とも同時にお湯がなくなったりします。
そこで水を補充しても、2つのやかんともにお湯になるまで待たなければならなくなる、というわけです。
さらに、しだいにみんながあれこれ考え出して、鍋のお湯をいろいろ応用しはじめます。
たとえば、夕飯の支度で味噌汁を作るときなどに、その鍋のお湯を使い始めるのです。キッチンのガスコンロでいちから味噌汁のお湯を沸かすよりも時間とガス代を節約できるというわけで。さらに、何人かが就寝時に湯たんぽを使うときにも鍋のお湯を活用していますね。
いちいちルールを作るほどではありません。
つまり「鍋とやかんの使い方」などという張り紙は不要。
察しと思いやりの賜物です。
1割ほどの、ほんの少しの計画と負担で済みます。
そして9割もの、想定外の偶発性を導きます。
どこか見知らぬところからふらっと旅人がやってきても、
「梅こんぶ茶を飲みますか?」
だなんて、うちの住人や、その場に居合わせたゲストすらも、その旅人のために食器棚からコップを出してあったかい飲み物を振る舞います。
さらに鍋からやかんにお湯を補充したりするのは、察しと、次の人への思いやりがなければ出来ないことでしょうね。同じような仕掛けとしては、「炊飯器と保温ジャー」というのもあるんですが、この話はまたこんど。
茶の間のほんの一角で行われている「ペイ・フォワード」というか「恩送り」とも言うべき、住人やゲストたちによる察しと思いやりの所作を、人知れず確かめる日々。
ほんの些細な仕掛けだけど、それと意識させずに、さりげなく。もちろん大胆な仕掛けも多くありますが、そんな小さな積み重ねを散りばめて。
自分の新しい住まいの形では、日常の中からこつこつと、みんなにとっても居心地のいい居場所となるよう。
こうしてひとの集う場所になっていくんです。