束の間の一花最終話 『幸福が遠すぎたら』朗読に寄せて

幸福が遠すぎたら /寺山修司



さよならだけが 人生ならば

また来る春は 何だろう

はるかなはるかな 地の果てに

咲いている 野の百合 何だろう



さよならだけが 人生ならば

めぐり会う日は 何だろう

やさしいやさしい 夕焼と
ふたりの愛は 何だろう



さよならだけが 人生ならば
建てた我が家 なんだろう

さみしいさみしい 平原に

ともす灯りは 何だろう



さよならだけが 人生ならば

人生なんか いりません


萬木先生が2話から一部を口ずさみ、
最終話のエンディングで全編朗読したこの詩ですがこの詩の誕生には先立って、于武陵という中国の詩人の「勧酒」という詩とそれを和訳した井伏鱒二の「酒ヲススム」という詩があるようです。
(ハルさまのノート「僕の好きな詩について 第十五回寺山修司」を参考にしております
https://note.com/hally10031003/n/ndf2fd52ed516)


勧酒 /于武陵

勧 君 金 屈 卮 

満 酌 不 須 辞

花 発 多 風 雨 

人 生 足 別 離

君に勧めよう、金の杯を
並々と注ぐが遠慮をすることはない
花の芽吹きの風雨に打たるるがごとく
人の世も「別離」と定して足るものだから
(※地下甘直訳)

以下、井伏鱒二の訳です。

酒ヲススム /井伏鱒二



コノサカヅキヲ受ケテクレ

ドウゾナミナミツガシテオクレ

ハナニアラシノタトヘモアルゾ

「サヨナラ」ダケガ人生ダ

 花が開いた頃に吹く風には、私も入学式の直前に散ってしまう桜に覚えがあります。あの儚さがイイというのは簡単ですし実際に日本人心として共感もしますが、結局は寂しいものです。それと同じく、人間の出会いも刹那のもの。別離があるからこそ人生だ、と于武陵はいいます。人生というものは別離に形作られているのだと。

 その于武陵の感性をこれでもかと衝撃なことばで訳したのが井伏鱒二の『「サヨナラ」ダケガ人生ダ』でしょう。読むものへ唐突にインパクトを与えるこの一行ですが、そのインパクトの原因は解釈への戸惑いがひとつなのではないでしょうか。


 果たして彼は"「サヨナラ」ダケガ人生"であることを文字通り信じているのか、それともそうでないことを願ってこれを言うのか。


 于武陵や井伏鱒二がどの心境で書いたのかは定かではありません。が、一方寺山修司は、"「サヨナラ」ダケガ人生"でないことを願って『幸福が遠すぎたら』を書いたと言われています。

 しかし大切なのは、寺山さんも「さよならだけが人生」であることを実感していること。戦争でお父様を亡くしてお母様とも離れ離れになった経験があり、その孤独を紛らわすために、さよならだけが人生ではないことを祈ったといいます。つまり、さよならだけが人生であることに、心の中では賛同している可能性が高い。その上で、さよならだけが人生だとすれば辻褄が合わないような人生の愛おしい部分、儚くも永いめぐりあわせの奇跡について言及しているのです。



「さよならだけが人生なんだって」
 これは、萬木先生が月を見ながらご家族との別れを思って言った言葉です。せっかく一花と出会えても、さよならする日は必ず来る。人生はさよならがないと成立しない。そういうものなんだと。

 確かにそうなんでしょう。ただ、私たちは一花の萬木先生を引っ張り出す底抜けに強い明るさも一花の弱さを包み込む萬木先生の暖かさも知っています。そんな私は思うのです。

 

『人生』は本当に、サヨナラ『ダケ』ですか?


 きっと萬木先生の最後の朗読では、初回から繰り返しているのと同様サヨナラが人生を形作ることに賛同している。しているけれども、さよならだけが人生だとは思っていないのでしょう。それこそ、詩を書いた寺山修司さんのように。一花に出会って笑えるようになって『幸せ』を感じて、幸せを与えたくて、抱きしめあって名前を呼んで、こんなに人生に彩りを与えてもらったのに、その人生を定義づけるのが「サヨナラ『ダケ』」なんて、そんな寂しいことがあるはずがない。

 

もし俺がくたばってしまっても悲しまないでいてくれる?
良い日々だったなあって笑ってくれる?
俺は君に出会えて本当に幸せだったから
俺のせいで君が泣くのはもう嫌だ
せんだ、わらい、ちか
せっかく名前に笑いが入ってるんだから

 あんなにサヨナラに固執していた萬木先生が、最期に一花に出逢えたことを感謝して、サヨナラを言わずに姿を消すように亡くなったこと。あんなに穏やかな声でサヨナラ以外のめぐりあう人生の営みを読み上げ、「さよならだけが人生ならば人生なんかいりません」と短く暖かく断言するように言い切ったこと。すべてが萬木先生と一花ちゃんの幸せな日々を象徴しているように感じます。


 さよならだけが人生。人の生は終わりがあって成り立つもの。でもその途中で何ができるか。さよならだけが人生だという絶望を跳ね除けるほどの何かに出会えれば、人生は『別離』以外の何かに喩えて足るのでしょう。一花が「どうせなら、喜ばないとね」と言うように。萬木先生が「同じ一分一秒なら喜べることに時間を使いたい」と言うように。





幸福が遠すぎたら /寺山修司(束の間の一花編集)



さよならだけが人生ならば

また来る春はなんだろう

はるかなる地の果てに咲いている

野の百合はなんだろう



さよならだけが人生ならば

めぐり会う日はなんだろう

やさしいやさしい夕焼けと

ふたりの愛はなんだろう



さよならだけが人生ならば

建てた我が家はなんだろう

さみしいさみしい平原に

ともす灯りはなんだろう



さよならだけが人生ならば

人生なんかいりません



2022.12.29   地下で甘く育ちました

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