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美の放射にポストモダンな問いかけが渦巻く『クリスチャン・ディオール、夢のクチュリエ』

女性でもゲイでもなく、ファッショニスタでもオタクでもない自分でも、何かを感じ、何かを得られるだろうか? そういう思いで、当日券を求める長い行列に加わった。

シャネルがプレスリーなら、ディオールはビートルズ。あるいは、スキャパレッリがエリントンなら、ディオールはチャーリー・パーカー。みんな偉大なのは確かだが、ディオールが時代を更新したのは明らかだ。第二次大戦後、モードのモダンはディオールから始まったことをあらためて強く認識した。

この展覧会は、創業者のクリスチャン・ディオールだけでなく、あくまでメゾンとしてのディオールの総体に着目している。歴代のデザイナーを網羅しているのもそのためだ。

だから、いろんな発見がある。2代目のサンローランが3年で早々に抜けたものの、マルク・ボアンがその穴を埋め、30年近くにわたり地盤を固めたのがよく分かった。まさに中興の祖だ。

あるいは、今更ながらジョン・ガリアーノはファッション界のサルバドール・ダリだな、とか。場内のキャプションには「パンク」という表現もあった。もっというなら、「スキゾキッズ」であり、「野生の思考」の体現者でもある。

初代のクリスチャンは、ファッションデザインの門を叩く前、1928~1934年には画廊を経営していた。ピカソなどすでに名声を得ていたキュビスムに加えて、当時台頭していたダリなどのシュルレアリスムの作品も取り扱っていたという。その経験が、審美眼を養う絶好の機会となったのは間違いない。しかしながら、彼のクリエイションは、「アートらしさ」には傾倒していないと感じる。

彼にとっては、母とともに自宅で庭づくりに励んだことが原体験だったようだ。バラ園、花壇、つる棚、睡蓮の池……その楚々とした美しさは写真にも残されている。彼はそこから自然への愛、花への慈しみを育んだ。最初期の「ニュールック」以降、スカートやヒップ回りのフォルムに花冠のイメージを見出すのは難しくない。有機性、曲線美への共鳴という点では、アール・ヌーヴォーの流れを汲んでいるともいえるだろう。

さらに、直接的に花の刺繍を織り込んでいたりもする。

クリスチャン・ディオール 1949年春夏オートクチュールコレクション イブニングドレス

ガリアーノの以下のこれなんか、エミール・ガレのキノコそのものだ。まさにアール・ヌーヴォー。

ディオールの歩みや功績を称えるのにやぶさかではない。しかし、それを「アート」として持ち上げるのもまた野暮というものだろう。歴代ディオールは、あくまでも女性のエレガンスの創出に主眼を置いていた。

思いのほか感銘を受けた展示が、仮縫いをまとったトルソーが居並ぶ「ディオールのアトリエ」である。

オートクチュールメゾンのプライド、つまり手仕事とオーダーメイドの誇りを感じさせた。紙に鉛筆かなんかで紋様を手書きして、貼り付けていて、とてもリアルなのだ。

今回の展覧会は、重松象平によるスペクタクルな空間演出の妙に負うところも大きい。とにかく視覚的にエモい。圧倒される。

そんな中、何ともいえない違和感がじわじわと浮上してきたのを正直に告白しておく。それについて以下、少し整理してみたい。

なにしろ……マネキンの数が多いのだ。衣装の展示だから、それがやむを得ないことはまあ理解はできる。しかし、クリスチャン・ディオール自身は、こういう言葉を残していた。

彼は、着る人間、生身の身体のことを第一に想っていたわけだ。しかしこの会場では、理想化され、しかも静止したモデルとしてのマネキンに衣装を着せ、物量でも圧倒する。これは、果たして本人の意に沿うものなのか。こんな展示は望んだだろうか。

寺の御堂に鎮座している仏像が、一時的にせよ無期限にせよ、美術館に運ばれて展示されているのを見る(拝む)ときの、ちょっとした虚無感と共通するものがあった。本来の文脈から切り離されたとき、その物品の価値は変容するのか。この問いはきわめて今日的である。京都・東寺の講堂の立体曼荼羅は、現地で見るのとトーハクの特別展で見るのとでは、明らかに前者の方が尊いと思う。後者の方が、照明効果でより強いドラマティックな雰囲気を醸し出しているのにも関わらず、だ。

着る主体としての人間から引きはがされた衣服というものを、どのように捉えればいいのか。服飾の歴史を紐解けば、人が服に隷属させられるフェイズもあった。あくまで人(女性)を主役に据えたのがシャネルの革命だったわけだ。いったい主役はどちらなのか。どちらであるべきなのか。今回の鑑賞中にそういう問いが頭をもたげたのは事実だ。

さらに、ディオールが露にする非西洋への眼差しにも触れておきたい。ジャポニズム、オリエンタリズムの志向が初代のクリスチャンから確認できる。特にガリアーノが着物からインスパイアされたと思われる作品は鮮烈の極みだ。

しかしながら、そんなポストコロニアルな視線は、文化的収奪という側面をはらむ。浮世絵に心酔したゴッホの頃のジャポニズムは、イノセントでピュアなエキゾティシズムだったのかもしれない。初代のクリスチャンにも、邪気はなかったと思われる。ただ、資本主義の競争社会でしのぎを削るファッション界では、いつまでも呑気に構えていられないのも事実だろう。とにかくショーを見る者にショックを与え続けなければ、という強迫観念からはなかなか逃れられない。特にジャンフランコ・フェレの就任以降しばらくは、奇抜さのインフレーションという形でそれが顕在化していた。デザインに向かう鮮烈なイマジネーションの裏側では、どこか宗主国の獰猛さが滲んでいる。極東の花鳥風月の国(つまり搾取される側?)の自分としては、若干の居心地の悪さを感じたり、のけぞってしまいそうになることもあった。

今回の展示が、第三世界へのベクトルを提示するセクションで締めくくられるのは象徴的だ。もちろん、現デザイナーのマリア・グラツィア・キウリのアフリカン・テイストは、同時代的なものへの落とし込みが見事で、嘆息するしかない。そこでは、見る者・着る者は、例え搾取される側だとしても「共犯者」に仕立て上げられる。やましさと陶酔がないまぜになる感覚は、服飾に独特のものであろう。

今回の展示では、メンズは除外された。某メディアでは「ほとんどがウィメンズ」との記載もあったが、1つもあったっけ? それはともかく、ファッションにおいて、やはりメンズは傍流なんだなと痛感。21世紀に新たな地平を切り拓くべく立ち上げられたディオール オムで、初代ディレクターのエディ・スリマンが成し遂げた偉業は、あと10年もすれば、必ずや「歴史」として顧みられるだろう。

結論としては、女でもゲイでもなく、ファッショニスタでもオタクでもない人にもお勧めしたい展覧会だ。美の放射にポストモダンな問いかけが渦巻いていた。ただうっとりするだけでない、パースペクティヴが広がるような体験が待ち受けている。

最後に、ラフ・シモンズのミニマムな感性に拍手。

超クール!


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