本質的にすべてが「弾き語り」──トム・ヨーク来日公演
いくつかのキーボードや機材がステージ中央に置かれているシンプルなセッティング。トム・ヨーク本人がひとりで上手から淡々と歩いて登場し、一礼。「こんばんは」のMCも出て会場は歓声に包まれる。アコギを抱えての1曲目は弾き語りの《Weird Fishes/Arpeggi》。オリジナルバージョンで効果的だった緩いドラムンベースのビートはなく、メロディの骨格が無防備にさらされる。
以後、サポートメンバーが登場することなく、すべての機材と楽器を使い分け、完全ワンマンでやり通した。これこそ「ソロライヴ」である。ギターにしろキーボードにしろ打ち込みにしろ、バッキングがなんであれ、本質的にはすべて「弾き語り」なのだ。そんなスタイルで、痩せたファルセットを主体に引きこもりの夢想が連鎖していく。
リアルタイムで彼を撮影した映像にエフェクトをかけてプロジェクターに投影する演出は、目を飽きさせない。ときにトムはエキセントリックな動きを披露し、オーディエンスを鼓舞する。そういう定番の盛り上げ方があるにしても、基本は独善的な世界である。その齟齬こそが、トム・ヨークという稀有な才能を象徴している。
彼の足跡を網羅するようなセットリストには、観客の期待に応えて、冒頭の《Weird Fishes/Arpeggi》以外にもレディオヘッドの人気曲が随所に置かれた。ソロ仕様なので、アレンジの変化も聴きどころの一つだ。
《Pyramid Song》はキーボードのリフと歌のみで、オリジナルでは中盤でカットインする超絶的に美しい変則ドラムパターンはオミットされていて、個人的には少しもどかしくもあった。一方で、アコギの弾き語りに変貌したラストの《Karma Police》は、低音でうなるように唱える"This is what you get"の一節に胸をえぐられ、最高の締めくくりとなった。
《Packt Like Sardines in a Crushd Tin Box》や《Idioteque》はオリジナル以上にマシンビートが強調されていたと感じる。特に後者は、卓のつまみをいじる時間も長くDJセットのような仕上がりだった。
バンドとしてのケミストリーと打ち込みのサウンドの融合に腐心していた90年代後期のレディオヘッドの試みは、個人的には当時、どっちつかずに感じられたのだが、今となってみれば、そういう実験的なスタンスからにじみ出る独特のエッジと抒情が、レディオヘッドを特別な存在にしていたと認めざるを得ない。むしろトムは、バンドのフォーマットが自分の音楽を追求するには妨げになると考えていたふしがあり、ソロや各種プロジェクトで打ち込みの多用が目立つのも、そういう推測を誘う。だから今回のバキバキにエレクトロなアレンジには、かねてから彼がやりたかったことを100%出したという清々しさがあった。
レディオヘッド以外のナンバーは、精密ながらも凝りすぎない打ち込みビートやアブストラクトでアンビエントなリフに、断片的な歌が乗るものが多く、結構そっけない。床が鳴動するほど重厚なダブステップのサウンドに濃密な歌が絡むジェイムス・ブレイクが、新しい21世紀のブルーアイド・ソウルの形を提示したのに比べると、どこか閉塞感は否めないのだが、半面では妥協のないハードコアな音像が立ち上がっていたとも言える。ここでも独り善がりのパワーが十全に活きていた。
レディオヘッドは、ブレイク当初からピンク・フロイドっぽかったし、エレクトロニカを経由したフロイドといった趣だったが、今回のトム・ヨークは、まさに「ひとりフロイド状態」と言っていい。しかも、ロジャー・ウォーターズとデヴィッド・ギルモアの役割を兼任しているようなもので、確かに前人未到の世界ではある。
それなのに、フロイドらしい職人芸的な巧さとはかけ離れているのが白眉だった。56歳にして、ときに歌はフラットしたりして、不完全さやほつれを隠そうともしない。30年前と同じく「引きこもりの自由」を謳歌していた。リスナーは、そんなトムにシンパシーを抱いたり、自分を重ね合わせたりする。演る方も観る方も、同じぐらい病んでいるわけだ。いや、現代を生きる人間ならどこか病んでない方が不自然だろう。
その意味では、フロイド的といっても、オリジナルメンバーで破滅型のシド・バレットに通じるヴァイブもあった。いまどき、シド・バレットみたいな音楽性で息の長い活動を続けられているミュージシャンなんて、トム以外にどれだけいるだろうか。そんな彼に最大限のリスペクトを捧げたい。