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予祝と祝祭の復権

なぜ街中で映像投影ゲリラLIVEをするのか。

予祝という言葉がある。コトバンクによれば、未来の姿を先に喜び、祝ってしまうことで現実を引き寄せることだ。農耕民の間で、豊作や多産を祈って、行われてきたおまじないをイメージするとわかりやすい。一番想像しやすいのは節分である。「鬼は外。福は内」の掛け声とともに1年の無病息災を願う。あとは「明日天気になあれ」や「春よ来い」などの囃子言葉が近い。

今回、私たちが行う行為は「予祝」に近い。これを希望的観測だという人もいるかもしれない。だが、祝祭は祝祭を引き寄せると思っている。

人類の路上での再会を祝し、祝祭を再開したい。

コンセプト

事の発端は2か月前にさかのぼる。

おぼろげな記憶の中から言葉の断片をサルベージしてみる。

坂「今は凹凸のない時代だよね、スマホとか電車だって昔だったら前照灯がついてたのが今じゃみんなのっぺりしてる」
志「確かに」
坂「最近読んだ文章でテクノロジーの発展はノスタルジーを作るってのがあって、19世紀産業革命での工業都市社会の発展は里山をノスタルジックなものとして観光するという副産物をもたらしたらしいんだよね。足りないものが娯楽になるとすれば、いま流行っているキャンプもその一つだよな」
志「俺も焚火してるしな。やっぱ火はいいよ。再帰性がなくて」
坂「これを踏まえて、映像に事を置き換えたときに、身体的な映像表現、つまり演劇がより脚光を浴びるんじゃないか?って思うんだよね」
志「その点で言うと、質量のないものの流動性はめっちゃ高いと思ってて、昨日見た映像アート作品の記憶はあいまいだけど、印象派の絵はずっと記憶に焼き付いてたりする。静止画は一つの作品と対話する時間が長いってのもあると思うんだけど」
坂「だからさ、映像表現に身体を取り戻したいのよ。これを音楽レベルでやってるのはライゾマ×perfumeさんで、それを演劇領域でやりたい」

何気ない会話から企画の断片はスタートした。

その中で「物語を軸にしたメディアアートコンテンツ=演劇」キーワードが飛び出し、企画が動き出し始める。まず本番の演劇をする前に、街へ飛び出しパフォーマンスをすることになった。そして街へ飛び出すテーマを考える。

テーマ

弊ヴェルトライゼンデのテーマに、「祝祭的人間讃歌」というものがある。これは人間がそれぞれの可能性の中で最大粒度に輝いている状態を作ることと、あらゆる可能性を表現することでその生存領域を拡大することだ。自分たちが考えるアートの役割の一つに、人間の生存領域・見えている世界を拡大・拡張するというものがある。映画・演劇・芸術作品問わず、アッとするような作品に出会うと自分の生きていていい範囲が拡張するような、解放されるような気持ちになる。こうしたものを作っていきたい。

今回、街で映像投影実験フェスを開催するにあたり3つのテーマを掲げた。

  1. Z軸の交錯
    フィジカル出会うことが欠けていた時代。画面と画面のコミュニケーションから、人と人のコミュニケーションへ
    2次元空間だと攻撃的な言葉を吐いていた人がリアルで会うと普通の人だったりする。人は想像できないものに恐怖を感じたり、暴言を吐いたりする。それがコロナ禍では顕著だった。人との会話のほとんどは画面の中で済まされ、そこにはZ軸や匂い、手触りが存在しない。そこで、相手を想像したり、本当の意味で交流はできたのだろうか?私たちは日常にもっとZ軸を取り戻したい。
    加えて2Dだとただのハッシュタグ検索だが、3Dだとそれが体験になる

  2. 分断を越える
    ソーシャルディスタンス・隔たりの時代に繋がりを再生する。

  3. 共鳴と調和
    それぞれの個性が同時並行で輝き、祝祭を取り戻す

そして今回最大のテーマに、冒頭に掲げた街に祭りを復活させるということを掲げた。

祭りの復権

街に祭りを。予祝により街にハレを。
人間にはケ(日常)があれば、それはやがてそれはカレ、ケガレとなる。こうした日常にはハレ(祭り)が必要だ。ハレがケガレを解きほぐし、祭りが分断を少しでも浄化できれば嬉しい。

(文責:坂根)

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