Why?
プロレスラーの木村花選手が5月23日、亡くなった。
人気番組「テラスハウス」に出演しており、その配信内容に関するSNS上での誹謗中傷に悩んでいたという。
彼女が亡くなって、「テラスハウス」で共演していたメンバーが追悼のことばを次々と発信するなかで、誹謗中傷に対するこんな意見がみられた。
「言葉は本当に、凶器になります。」
「言葉の暴力って言いますけど、それは本当なんですよ。」
同時に、共演者の方々は木村選手の優しさを次々に書き連ねていた。一緒にいたからこそ分かる、彼女の本当の姿があったのだろう。
言葉がなくても伝えられること、言葉を使わないからこそ感じられること、たくさんあるのに。
「どうして人は言葉をもったのだろう?」
それとなく聴いていた曲の歌詞が、心に響いた。
もしこの世界に言葉がなかったら、わたしたちは幸せなのだろうか?
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SNSが普及したいま、我々はこれまでになかったほどに多くの言葉に触れている。誰が発信したともわからない言葉が、次々に画面を流れていく。
発信者がどんな人であるか分からないからこそ、言葉は「わたしの言葉」ではなく「誰かのことば」として、発信者を離れて1人歩きを始める。そして誰かのもとに、必ずしも発信者の意図通りではないかたちで届く。それらは文字という形をもって残り続ける。
誹謗中傷から身を守るために、芸能人が叫ぶ。
「芸能人も、人間なんです。」
だけど、その芸能人に届く言葉は、それを発した人間を離れてしまっている場合が多い。だから今回の件も「人間のせい」ではなくて「言葉のせい」であるように見えてしまう。
実際にSNSで言葉を発するとき、軽い気持ちで言葉を発してしまっているのは事実だろう。そこには、SNSの匿名性ゆえ、自分が言葉の発信者としての責任を逃れることができるという考えが潜んでいるように思う。
だけど、そのように言葉に責任を負わせて、自分が責任を逃れることができるかといえば、そうではない。言葉を発することができるのは人間だけだ。たとえ言葉が発信した人間のもとを離れていても、その言葉への責任は他ならぬ発信者にある。
SNS時代、私たちが改めて言葉との付き合い方を考えなければならない時期を迎えていることは、以前から叫ばれていたはずだ。
それでも言葉と上手く付き合えないのなら、やはり人間は言葉を持たないほうが幸せだったのかもしれない。
本当に、どうして人は言葉をもったのだろう。
皮肉にも、彼女の死は言葉よりも多くのことを語っていた。