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美しさを求めるということ


人間は、美しさを求める生き物だ。

誰かに見せるためでなくても、朝、鏡の前で髪を整えたり、好きな服を選んだりする。街を歩けば、ふとした風景や建築に目を奪われ、美しい音楽に耳を傾ける。言葉の響きや、所作の優雅さに心を動かされることもある。

でも、これらは合理性とは無関係だ。
美しく着飾らなくても生きていけるし、装飾のない無機質な建物のほうが安くて便利かもしれない。音楽がなくても、ただ情報を伝えるだけなら単調な機械音で十分だろう。
美しさを求めることは、機能的には「無駄」だと言われることが多い。


だからこそ、現代では美意識が軽視されがちだ。
効率を優先すれば、デザインや表現の余白は削られる。論理的で実用的であることが正義とされ、そこに美しさを求めることは「余計なこと」「贅沢」と見なされる。しかし、それは本当だろうか?


動物には、美意識がない。美しく着飾る鳥や昆虫もいるが、それは生存戦略の一環であり、彼らが「美しい」と感じているわけではない。ただ、人間だけが、美を感じ、美を求める。


もし、美しさを求めることをやめたら、人間はどうなるのか。
機能的で無駄のない服を着て、感情を排した単調な言葉を話し、ただ情報を交換するだけの日々を送る。それは、すでに「人間」と呼べるのだろうか?

美意識とは、合理性の外側にあるものだ。だからこそ、人間にしか持ち得ないものなのかもしれない。効率や機能だけでは満たされない何かを求めること。それが「人間らしさ」というものの核心なのではないかと思う。

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