差別に加担しないって難しいなと思った話
この投稿は、私のインスタグラムアカウントでの投稿、差別に加担しないって難しいなと思った話のプラスアルファの話です。もしまだ読んでいない人がいましたらそちらからどうぞ。
後日談
そもそもインスタグラムの投稿はどうしても画像の見やすさと言いたいことのバランスを取らなければならない為、私が言いたいことを省いていることも多く、こうやって別でnoteにすることにしました。
本題
元のインスタグラムの投稿は、立教大学2021年度春季人権週間プログラム講演会「マイクロアグレッション―日常生活に埋め込まれた無自覚の差別―」を聞いた時の感想をそのまま形にしたものでした。
講演会の内容は、マイクロアグレッションについてその理論的なものや実際どのようなものがあったかを講師の金友子先生が在日コリアと女性の立場から話すというものでした。
私自身自分の性自認が女性であり、またフェミニズムについても本を読んだりして勉強しているので、なんでセクハラなんかするのだろう?と疑問でしたが、一方で外国人差別については自分がマジョリティであることからこれまであまり考えてこなかった背景があります。
そのため、同じ私という一人の人間の中にも、言葉などの加害性に気づく私もいれば気づかない私がいるというのが衝撃でした。具体的には、この講演会でも話されていたような外国人に関することで、自らの行為を反芻して実際何かやらかしていそうだなと感じました。
高校時代
私は高校時代外国語系のカリキュラムが充実した学校に行っていたので、クラスや部活に海外ルーツのある同級生、先輩・後輩が多くいました。その中で無批判に容姿をほめてみたり、○○語喋ってみて~ 等言ってみたり、恐らく何かステレオタイプに基づいた発言などしただろうと、講演を聞きながら自らの行いを振り返ってました。
例えば、部活は当時演劇部で部員に背の高いアフリカンルーツの人がいました。衣装合わせの際に彼女にスポーティな格好をしてもらった時に
「アメリカでバスケしてそう!めっちゃ似合う」
等と盛り上がった記憶があります。今考えると ブラックルーツ=スポーツが上手い 見たいなステレオタイプが混ざった発言だったなと感じます。
なぜ気づけなかったのか
それは私が(人種・国籍面で言うと)マジョリティであるからです。
そもそもマジョリティって何かって言うと、社会で想定されメインストリームと思われる人。社会はそういう人向けに作られているので、そうではない人が受ける苦労を知らずに済むのがマジョリティの特権です。
だからこそ私は、マイノリティである女性差別については頻繁に考えられてきたとしても、人種差別について日本国内でマジョリティであるため、そういうことを考えずに済んできたということです。
今回私の中にあると知った“差別に反対しながら、もう別の面では差別をやってしまう”感じは、旧来の社会運動を思わせます。
例えば公民権運動でも労働運動でも、その中心は男性であったため、組織の中で性被害に遭ったり、黒人女性は運動に参加できない等あったと聞きます。一つの差別には反対できるのに、他の差別になると加担してしまう。フェミニズムがトランス排除をしてしまったのもそれではないでしょうか。
その歴史を踏まえて、 #BlackLivesMatter は3人いるリーダーが全員黒人女性でうち2人はクィアだそうです。
私は差別をしないという人へ。
私もそうですが、私は差別をしないという言葉には、これまで考えたことないし多分したことないよ という言葉は含まれていないでしょうか。差別で無自覚で入れること、それは即ち差別をする側の属性であり、積極的に差別を無くそうとしなければ差別を温存してしまう立場にあることをどこかで気づく必要があると思います。
別にできていない人を責めたいとは思いません。それよりも、そういうことを教えてくれなかったこれまでの教育に怒りたいです。
差別をなくす教育についてはこちらで記事を書いています。よかったらこちらも読んでください。
読んでくれてありがとうございました。