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属性や役割ではなく人間同士で出会いたい。グランドレベル代表・田中元子さんが語る「まちづくり」への違和感【前編】

よく「まちづくりの人ですよね!喫茶ランドリーの人ですよね!」って言われるんだけど、私はなぜ”それ”をやってるのかっていう話を、ちゃんと人に話したかったんだよね。

どこかから、そんな話し声が聞こえてきた。株式会社グランドレベル代表の田中元子さんだ。

田中さんといえば、まちを行き交う人にフリーでコーヒーを振る舞ったり、私設公民館のような場所をつくったりして、「マイパブリック」という新しい「公共づくり」を実践されているあの方に違いない。

数々のメディアで注目されている喫茶ランドリーをはじめ、「1階づくりはまちづくり」をモットーに全国で1階づくりを手掛けている田中さんは今、一体何を考えているのだろう。

ある日の夕暮れ時。だんだん薄暗くなってきたまちの片隅で語り合う2人の会話に耳を傾けてみるーー



<登場人物>

田中元子さん(以下、田中)
株式会社グランドレベル 代表。

ライター・建築コミュニケーターとして、建築関係のメディアづくりに従事。2016年「1階づくりはまちづくり」をモットーに、豊かな1階づくりに特化した株式会社グランドレベルを設立。空間・施設・まちづくりのコンサルティングやプロデュースなどを全国で手がける。2018年私設公民館として「喫茶ランドリー」開業。2019年より街中にベンチを増やすための活動「TOKYO BENCH PROJECT」を始動。2024年、まちのフードコート「オラ・ネウボーノ」開業。主な著書に、『1階革命』(晶文社)、『マイパブリックとグランドレベル』(晶文社)、『建築家が建てた妻と娘のしあわせな家』(エクスナレッジ)。

聞き手:矢野晃平(以下、矢野)
PIAZZA株式会社 代表。

千葉県生まれ。幼少期をオランダで過ごし、中学生で渡米。海外生活の中で「街並みの美学」という本に出会い、はじめて「PIAZZA(ピアッザ)」=イタリアの広場という空間概念に出会う。これを機に都市設計の道を志す。カナダMcGill大学土木工学部設計科を卒業。専門は構造力学並びに都市設計。帰国後、日興シティグループ証券(現:SMBC日興証券)投資銀行本部に入社。その後、株式会社ネクソンの経営企画部へ。オンライン・コミュニティを軸としたゲーム事業に携わり、2015年5月PIAZZA株式会社を設立。
土木工学・都市設計、金融、オンラインコミュニティ、そしてPIAZZAへ。生涯を通じて一貫した想いを抱き続けている。



多様で普通の人たちで、このまちはつくられている

「プレイヤー」じゃない人がいるとでも思ってるの?

田中 私、まちづくりの「プレイヤー」という表現、大嫌いなんです。
家に引きこもってる人とか、地域のイベントに来ない人とか、そういう人もまちにはもちろんいます。でも、そういう人たちも含めて「まち」ですよね。
でも「まちづくり」という言い方をした時に、なぜか、イベントを企画する人やステージに立つ人たちのことを”プレイヤー”だ”キーマン”だとか言ってるんですよ。
まちに、プレイしてない人がいるとでも思ってるんですか?って思ってね。

矢野 たしかに、そうですよね。僕もプレイヤーという言葉、使っちゃっていました。

田中 あとよくあるのが、このまち”らしさ”を語るときに「あの神社は有名な武将が…」とか、「ここで穫れる名産はね…」みたいな話ばっかりで、今通りかかったアノ人のことは話さなくて良いの?今のまちをつくっているのはアノ人たちでしょう?って思うの。

そういう、普通の人の普通の暮らしに対して、まちづくりする人ってほんとに興味ないのかな、なんて思っちゃったりね。普通の暮らしをしている、というだけで思考停止して記号化して見ちゃってるんです。なんていうのかな、ありもしない普通っていうものに押し込んでる感じ。

地域の「面白い人を巻き込む」とかよく言われるけど、”面白い人”とか”面白いこと”って、誰にとっても面白いものなんてないし、それを面白く思えてない側のコンディションに問題があると思うの。
自分以外の人はみんな、おかしいわけですよ。そういう傲慢なものの言い方するのに、私ちょっと耐えられないんです。

矢野 それこそ”プレイヤー”として活動している人って、1人でやっている方が多い気がするんですよね。個人プレイが悪いことではないと思うんですけど、もっとみんなでやればいいのに、と思うこともあって。

田中 そう、わかる。なんだか最近、承認欲求の強い人がコミュニティとかローカル、ソーシャルの分野に行きがちだなっていうのも感じますね。
そうやって1人で頑張ってる方って、本当にこのまちのことが好きでやってるのかなって疑問に思っちゃう。このまちを盛り上げている自分を演出したいと思ってやってない?って思っちゃうの。

成果を出したとか、優秀な成績を取ったとか、昇進したとか、 肩書きができたとか。自分を記号化する手段の1つになっているんですよね。
実際、そういうことが周りから褒められたり、助成金を受けたり、賞を取ったりするわけじゃないですか。

そうなってくると、それを狙ってやっている人が多くなって、意地汚くお金稼いでる人たちとやってること変わらないじゃんと思って。
コミュニティつくって「こんなに賑わってます!」って、仲間内のパーティーみたいな写真をSNSにアップしてるのを見ると、こんなに自分は人を集められるんだ、とアピールしてるようで、ドライな目で見てますよ。

別に嫉妬ではなくて、多分、私がずっとそういう”コミュニティ”の外側にいることが多かったからだと思うんです。母集団の外に自分がいて、「あの人たち盛り上がってるな」って外から見てる経験が子どもの頃からあったので、そういう一部の人だけじゃなくて、もっと普通の人にもやってほしいなと思ってます。

自己承認欲求が強すぎて、人より少しでも新しいことやらなきゃとか、変わったことやらなきゃって必死になって、焦って、なんか変なことやっちゃうんだよね。
新しくなくていいから、一緒にゆっくりお茶でも飲めばいいのにって。


数値で測れないものを、無かったことにしないでほしい

矢野 人と繋がることの価値は人数とか規模ではないですもんね。たった1人でも、その人と分かち合えることに価値があるというか。

田中 本当にそう。大勢が集まって楽しいこともあるけど、2人でゆっくり話すことにも同じように価値があって、優劣で語れるものじゃない。「質」と「量」の両方が大事だと言いつつ、結局量しか見られていないのは、なんでだろう?って思います。
数値化できない部分があるのは事実だけど、測れないから無視しましょう、はおかしいですよね。

矢野 すごくわかります。イベントの集客で目標達成しなかったからといって、そのイベントが失敗だったかといえばそうではない。来てくれた人たちが、良い体験ができて、ポジティブな気持ちになってくれていればそれでいいですよね。
でも、これがビジネスとなると、定量的な結果ばかり求められます。その方が判断しやすいからだと思いますけど。お金がかかっていることも事実で、それに対する説明も必要ですし。

田中 そう。私が1階づくりにこだわっているのも、そこに対する疑問だったのかも。
「まちづくりをして、こういう成果を出す」なんて言うけど、自分が生きてるうちに、どんな結果が出せるんだかって話なんですよ。
1人や2人であっても、そこで生まれた体験の質を見たいし、イベント動員数とか「何月何日までにコミュニティを何個作る」ということではないですからね。

そういうものが生まれる確率を高める設計なり、コミュニケーションのあり方をデザインするために、グランドレベルではやっていきますけど。
そういう、人が動いた数を自分の手柄にするのは本当に辛いと思いますよ。

矢野 そうですよね。数字じゃなくて、目の前の誰々さんとか、そこで生まれた関係性を大事にしていきたいですよね。

人間同士の付き合いがあるから、矛盾を受け入れられる

属性や役割ではなく、人間同士で出会いたい

田中 この喫茶ランドリーは、私設公民館としてやっているんだけど、そうすると「子育て中の人が来るんですか?」「お年寄りが来るんですか?」と聞かれるんです。
そういう属性だけで見るんじゃない、と思いますよね。
だって、私は一生私でしかなくて、お年寄りとか子育て中っていう”カテゴリー”にガッチリ当てはまるような肉の塊には一緒にならないんですよ。人間は1つの属性じゃ語れないですから。

ここにも、独立したクリエイターとか子育てしている方とか、属性が全く違ういろんな人が来ます。この場所で会って、なんでもない挨拶から始まって、そこからご近所付き合いが始まって、普通に友達になってるんですよね。
大したドラマがあるってわけではないけど、フランス映画的なちょっとしたエピソードがずっとこの場所で生まれ続けていることが1番嬉しいんです。

矢野 そういう、属性を問わない関係って良いですよね。でもそれって新しいというか、属性とかターゲットを特定しないとって、今はもうほとんど全部が属性で区別したがるというか。

田中 そう、ビジネスでも行政でもね。

矢野 ですよね。でも、本来、属性から離れたところでのコミュニケーションにこそ価値があるというか、そこで初めて救われることもありますよね。

田中 属性って、人をわかりやすい記号化してるだけで、自分がどんな肩書きだとか、何かの属性に自分に当てはめたからって、自分には何の得もないですよね。

路上でフリーコーヒーを振る舞っていた時に痛感したのが、ボロボロの服を着てても楽しそうな人たくさんいたし、お金持ちそうでも表情が明るくない方もたくさんいた。この世の中で、誰を助けなきゃいけないですか。誰が1番可哀そうな人ですか。って言われたとしても、そんなの決められないわって思ったの。

自分を何かの属性に当てはめちゃうと、その属性として正しくいなきゃ、って萎縮しちゃう。そういう記号でしか人間を見れないっていうことが、なんだか自分を記号化させないと生きていけない社会になるじゃない。

子どもの頃から、テストで何点取れるのか、いい子かってことばかり気にされて、「あなたどんな人なの?」って誰も聞いてくれないじゃん。
でもコーヒー振る舞ってると、大人も子どもも、勝手に喋りだすのよ。ちょっと挨拶したら、もうあとはコーヒー淹れて待ってる間、この辺昔はこんな感じじゃなかったんですよとかなんか言うわけで。

いろんな人と会って色んな話聞いてると、何も質問してないのに勝手に喋り出して、ほとんどの人が聞いてほしい人だと思ったし、 彼らが勝手に話す話は、家でも学校でも職場でも聞かれやしない話だろうと思った。でも、彼らが本当に喋っていたい話なんだよね。

そういう、属性とか役割には全く関係のない話、私の期待とも関係ない話をしてくれるんです。私は1番それが見たかった。だからコーヒー振る舞ってるのが楽しくてしょうがないんですよ。

矢野 そのコーヒーっていうのが、人間同士の付き合いがはじまる、1つのきっかけになってるんですよね。

田中 そう。この場所も、コーヒーが飲みたくて飲みたくてしょうがない人が来るわけじゃないんです。子育て施設でも職場でもなくて、1人の人間として素直に落ち着けるっていう自由な空間を作りたかったんです。

矢野 そういうことですよね。めちゃめちゃ共感です。コミュニティづくりとかまちづくりとか、すごく押し付けがましいんですよね。

田中 そうそう。この場所だってどこにも「コミュニティ」なんて書いてないし、そんなつもりもないんです。
「どうやってコミュニティ作るんですか?」って言われるけど、つくらないの。
「どうやって人を巻き込んでるんですか?」って言われるけど、巻き込まないの。

福祉系の方とか、誰かのためにコミュニティを作ろうとされる人も多いけど、そういう自分の思い通りに他人が動いてくれることを望むと、幸せになれないですよね。他人のことは操作できないから。

誰かに「ありがとう」と感謝されるために、そのありがとうの数を数え始めると、感謝されなくなったらどうするの?やめちゃうの?という話ですよね。

矢野 ありがとうの数、数えちゃいます。そうやって、誰かにギブする人って、どんどん自分の精神がすり減って、疲れてしまいませんか?

田中 自分がやりたくてやってることだと、思えるているかどうかですよね。やっぱり、「ありがとう」って言われると嬉しいし、人が笑顔になるのも嬉しいじゃない。それを喜ぶなと言いたいわけじゃない。

コミュニティの現場にいる子たちに必ず伝えていることは、今まで言ったりやったりしてきたことを「全部嘘だ、バーカ!」って言って、どこかにとんずらする切符をお腹にいつも入れておいてね、ということはよく言ってます。
別に、一生その切符は取らなくてもいいと思う。けど、時々お腹に手を当てて「切符まだあるかな」って確認してほしいんです。「お腹触ってないと、いつの間にか無くなってるよ」って。切符を無くしたらもう逃げられなくなっちゃって、誰かの「ありがとう」がないと、自分に価値がないと思ってダメになっちゃうんです。

だから私はやっぱり、こういう場所を運営する人は、1番わがままじゃないといけないと思ってますね。
だって、こういう場所が良くなるためには、私自身が自分はこんな人ですって最初に開示していかないと、相手からも出してくれないでしょ。

私が御用聞きみたいになって、相手の顔色を伺ってたら、それは「マイパブリック」である意味がなくて行政がやることなんですよね。だから、私設であるってことは、1番ここの主がわがままでいるべきだなって思います。
人生の主導権は、自分で握っておかないとね。

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