もっともっと…と離れて、帰って来れなくなる。
春の地面から、、、
フワァーーと立ち上がる草花のイノチの様子
日常の中にある
そのような繊細さに気づけたなら…
もっともっと…強い刺激
みたいなものは
必要なくなるような気もします。
あまりにも「強い刺激」に慣れてしまって
そっちに気を取られていて、
そのようなイノチの豊かさが
「日常の些細」なこととしてスルーされてしまう。
それらは
刺激的でない・面白くないから…。
考える・思考優位で、
かんじる・感覚が使われなくなり
感性も鈍くなっていって、、、
それでもイノチは
「いまここ・かんじ感覚を感じたい」
なので、濃い味を求めるように
もっともっと…と強い刺激を求めます。
映画や漫画などの
バイオレンスな描写
その需要と供給が成立している背景には、
まさにそのようなものもある気がします。
もっともっと面白い
=刺激的なもの
感じない…から、気づかない。
気づかない…から
「もっともっと…」で、それを埋めようとする。
その、もっともっと…を満たしていった先
その、もっともっと…がエスカレートした先に
平和であったり、シアワセな風景はあるのでしょうか?
たぶんこれも左脳過剰
(左脳さんの暴走)についてのハナシで、
もっともっと…と「強い刺激」を求めることは、
いま・ここ・ある・わたし
から離れていくことなのでしょう。
「強い刺激を求める」というのは、
そのまま「左脳過剰とそれによる暴走現象」のことで、
あまりに暴走=離れすぎて帰って来れなくなる。
それは麻痺していく…とか、それによってさらに気づかなくなる…とか、繋がれなくなる、思い出せなくなる…というようなイメージです。
なにを、思い出せなくなるのか?
それは「ひとつであるという事実」そのシンプルさとして生きること…なのだとおもいます。あまりにもひとつであるという事実と乖離しすきで、分離感の意識が強すきで、、、ひとつという事実を想像したりイメージしたり、それを思い出す機会にすら出会えなくなる…というようなことです。
ウェルカムレイン☆サヤカ http://sky.holy.jp