ノンデュアリティ・悟り探求していた人が「 右脳意識になると、こうなる。 」
前回のつづき
もし、非二元・ノンデュアリティ・悟り的な
探求が起きている場合には
そういう探求が終わると、、、
( =右脳意識になると、、、)
非二元・ノンデュアリティで語られているようなことが
「 どーでもよくなります 」
コトバ・思考的理解の重要性が落ちる
= 左脳ではなく右脳優位になるからです。
非二元・ノンデュアリティ・悟りについての描写も
「なんでもいいよー」になってしまう右脳意識
「正しい理解」や細かい描写にこだわっているのも、
やっぱり思考・左脳さん
アタマで「わかろう」とすることの重要性が落ち、非二元ノンデュアリティの細かい描写に「ひっかかっていた左脳さん・思考」が後ろに引っ込むからなんだとおもいます。
それによって「正しさへのこわだり」や 悟りへのイメージ(こうあるべき・こういうもんだ)もゆるみます。
逆に、そうならないと、、、
そういう思考・左脳から起きてくる
探求全般は終わらないのだとおもいます。
具体的に「なにが」終わったり終わらないのか???
そういう「左脳過剰から起きている左脳の動き」が終わるです。
左脳過剰からきている「知りたい・わかりたい」
理解できれば、なにかが変わるんだ…という
「ないない探求」が終わって、、、
いまここに落ちついている
右脳的なありようです。
たとえば、一瞥体験というのが起きたとき、
左脳から右脳にわかりやすく振れたとき、
そのあとの分かれ道。
それを左脳的に理解しようと掴むのか。
そのまま右脳・かんかくに止まるか。
これによって、そのあとの体感(経験)が変わってくるのだとおもいます。たとえば、それを左脳で掴めば
「わたしは悟った」
と左脳さんがその体験を所有しているような表現をし始める…ってことがおきています。
つまり、左脳優位な状態に戻っています。
探求中には(=それを左脳で理解・捉えているときには)
非二元・ノンデュアリティの
「細かいコトバの表現的部分」が気になったり、
自分が(または誰かが)悟っているとかいないとか、
そういうことが気になるものなのですが、
不思議と、、、そういうことが
「どーでもよくなる・気にならなくなる」右脳域。