うたのはなし①海士町の民謡「キンニャモニャ」
皆様大変ご無沙汰しております。歌人の有泉です。会社員をいたしております。私の勤めております会社では、海士町のお土産のお菓子を製造・販売いたしておりまして、本日は弊社で作っている「キンニャモニャ饅頭」
と、その名のもとになった海士町の民謡「キンニャモニャ」について
ご紹介したいと思います。
「キンニャモニャ」とは何ぞや
「『キンニャモニャ』って、どういう意味?」というのは、観光客の方々からよくお尋ねいただく問いです。
「キンニャモニャ」は、両手にしゃもじを持って踊る民謡で、「キン・ニャモ・ニャ」の囃し詞に合わせてしゃもじを打ち鳴らしながら踊ります。毎年8月の終わりには海士町の玄関口の港・承久海道キンニャモニャセンター周辺でパレードが行われ、およそ一時間円になって踊ります。
では、キンニャモニャパレードで実際に踊っている様子を見て頂きましょう。※リンク先の動画は【隠岐民謡】キンニャモニャ踊り(海士町大感謝祭)2023年8月26日/山陰中央新報社
海士町民謡「キンニャモニャ」は、海士町菱浦で幕末の嘉永五年(1852年)に生まれた杉山松太郎さんという方が明治十年(1877年)に西南戦争に従軍して九州に行かれた際に、現地のお座敷歌「キンニョムニョ」をうろ覚えにおぼえて島に帰ったのが最初で、その後島に定着していく中で、民謡によくあるように、その土地独自のものになっていったのではないか、ということです。
参考文献:『隠岐の国散歩』隠岐観光協会・隠岐歴史民俗研究会/ハーベスト出版
「キンニャモニャ」は、しゃもじを打ち鳴らす時の囃しことばなのですが、
以前、私の少し上の世代の方から聞いたお話では、「キンニャモニャ」の「キン」は「お金」、「ニャ」は「女性」、「モニャ」は「文無し=お金がない」という意味なんだよ、とおっしゃる方もいらっしゃいました。
というのも、杉山松太郎さんは、いつも元気で皆を楽しませてくれる明るい人だったけれども、女性によわく、いつもお金を持っていなかったということでした。松太郎さんはいわゆる「老いらくの恋」で、年下の「キヨ」さんという恋人がいたということです。その「キヨ」さんの名前も歌詞のなかに出てきます。
参考文献:『隠岐の民謡~その起源を訪ねて~』近藤武 著・隠岐民謡協会
発行/天神原印刷 昭和59年6月24日第一刷発行
〽キヨが機織りゃ キンニャモニャ あぜ竹へ竹
殿に来いとの キンニャモニャ まねき竹
クラゲ チャカポン モテコイヨ
〽届け届けよ キンニャモニャ 末まで届け
末は鶴亀 キンニャモニャ 五葉の松
クラゲ チャカポン モテコイヨ
参考:『古代出雲歴史博物館ホームページ』
歌詞にある、「あぜ竹」は、「綜竹(あぜたけ)」
でしょうか。 機織り機で、縦糸のもつれを防ぎ、
順序を正しくするために、その間に入れる細い竹の棒
のことです。
『隠岐の民謡~その起源を訪ねて~』によれば、
「殿に来いとの」は、「昔は『松に来いとの』と歌った
」とのことで、現在では耳にすることのなくなった古い歌詞も
記されています。この『隠岐の民謡~』が書かれた昭和59年
(1984年)、今から40年前の時点ですでに、知られなくなりつつ
あった歌詞です。
キンニャモニャの古詞
上野ヒナ子さんという方が歌った古詞。
〽松のじいやに キンニャモニャ 機織り習った
今日も楽しや キンニャモニャ カタカタと
キクらも チャカらも チョット来いよ
〽キヨが機織りゃ キンニャモニャ あぜだけへだけ
松に来いとの キンニャモニャ 招きだけ
キクらも チャカらも 皆来いよ
『隠岐の民謡~』の註によれば、「『キク』は人名で、
『チャカ』は『人名の略語化したもの』であるとのこと」
とあります。
私も幼少期(保育園の頃)から「キンニャモニャ」はよく
知っていて、しゃもじを持たされれば、それなりに踊れます。
ただ、踊りながら、この歌詞の意味については(何だろうなあ)
と不思議に思っていたので、今回色々調べてみて、スッキリして
良かったです。
老いらくの恋
松太郎は大の働き者で、若者にも負けないのが自慢であった。
そして酒と女が大好きで、そのうえ世話好きで金儲けは上手だが、
いつも文なしという生活に誰れ云うともなく
「金(キン)女(ニャ)文(モン)」キンニャモじいさんという
あだ名で呼ぶようになった。
ところが、キンニャモじいさんには一つの特技があった。それは
機織りで、自分の仕事のあい間をみては娘さん達に教えていたが、
そのなかに同村の「岩坂キヨ」という可愛らしい娘さんがいて、
キンニャモじいさんは特に力を入れて教えていたという。
その内に、二人は次第に心が通い合う睦まじい仲となった。
村では老いらくの恋として評判となり二人は目出度く結ばれた。
と書かれています。キヨさんに機織りを教えたのは「キンニャモじいさん」
と呼ばれた松太郎さんで、二人がねんごろになるきっかけになったのも
機織りだったのでした。
小泉八雲も菱浦で見た機織り
さて、キヨさんが菱浦で機織りをしていた時代、菱浦を訪れた旅人がいました。旅人の名はラフカディオ・ハーン(のちの小泉八雲)と、妻の小泉セツさん。二人は明治二十五年(1892年)の8月9日から24日にかけて隠岐を訪れました。ハーンはセツさんと、菱浦の岡崎旅館に滞在。目の前の美しい湾を「鏡ヶ浦」と名付けました。
また、宿の近くでハーンは機織り娘さんたちが働く様子を目にします。
このこぎれいな小さな町の生活は、とりわけ古風で、機械というものが
導入されて以来、出雲その他の地方ではほとんど絶滅してしまった、昔
ながらの家庭工業が、菱浦にはいまだに残っている。血色のいい娘達が
仕事に疲れると代りあいながら、木綿や絹の着尺を織っているのを眺める
のは、ほんとに楽しかった。しかも、そうした穏かな美しい生活が、すべ
て明け放しで人の見るにまかせてあるので、わたくしは好んでそれを見物
して歩いた。
引用:『日本瞥見記 下』小泉八雲 著・平井呈一 訳/恒文社
『日本瞥見記』の中でハーンが記した、血色のいい機織り娘さん達の中に、もしかしたらキヨさんも居たかもしれませんね。
私は、普段は短歌を(時折は和歌を)詠んだりしているサラリーマン歌人ですが、地元に残された民謡文化についても、これをきっかけにきちんと調べて残していきたいと強く思いました。
なお、「キンニャモニャ饅頭」の通販でのお買い求めは
お土産と手仕事の店つなかけBASESHOPまで
宜しくお願いいたします。