水曜日 -3
「ままがね、誕生日プレゼントにマンション買ってくれたんだけど」
「最初から最後まで聞きなれない文章すぎて脳が拒絶しちゃった。何て?」
「ままが誕生日プレゼントにマンション買ってくれたんだけど、ほらあたし超可愛いじゃん? いくらセキュリティがちがちとはいえ一人で住むの不安じゃん?」
「今まで一人暮らしだったくせに……」
「だから月子、一緒に住も?」
「嫌……どこなの」
「赤坂!」
「本当に嫌……」
えーなんで、と言いながらうららの吐いた煙が窓の外に吸い込まれるように消えていく。アメスピって喫煙所の匂いがする、煙草らしい煙草の匂いというか。
「2LDKだよ?」
「デカすぎんだろ、どちらにせよマゾ連れ込めなくなるから駄目。それにお前動画撮るじゃん」
「全室防音だよ? それに撮影用の部屋があるから大丈夫! ね、一緒に住も?」
「考えとく」
確かに来年は家賃の更新があるし、そろそろ引っ越そうかとも考えていたけれど、いざその選択肢を突き付けられると脳裏をよぎるのは不安だけだ。普段は楽観的だけれど、不安を抱かないわけじゃない。不安は保険、冷静になるための装置だ。常に頭の片隅に置いておかないと事故が起こる。
他人との生活、どんな感じなんだろう。そりゃあうららとは仲がいいし、一緒にいると楽しいけれど、それが生活を共にするとなると何か変わってしまわないだろうか。掃除は? 洗濯は? 炊事は? 何ができて、何ができないんだろう。わたしは今まで通り自由に生きていられるのだろうか。
それらの不安を全て覆せるくらいうららはいい奴だ。いい奴だけれど、わたしがうららにとってのいい奴でいられるかどうかがわからない。
「あたし、月子と一緒にいて怒ったことがないんだよね」
指先に挟んだ煙草を眺めながらうららが呟く。確かにうららは誰にでも分け隔てなく接するけど、それによって疲れているのはわたしも知っている。
「うららは誰にでも怒らないでしょ」
「そんなことないよ、一緒にいて疲れるな嫌だなって思うこともあるし、一人になってから怒ったり、月子に愚痴ったりするもん。でも月子に対してそう思ったことないよ、月子って不思議」
午前十時の風が優しくカーテンを揺らした。遠くからコロッケかメンチカツの匂いが漂ってきて、そういえばお腹が空いたな、と思い出した。うららからの電話で起きて、うららが来る前に部屋を掃除したから、まだ起きてから何も食べていないんだった。冷蔵庫に何かあったっけ、それとも肉屋に買いに行っちゃおうかな。
「他の誰かと一緒に住むのは嫌だけど、月子と一緒ならいい気がする。最近寂しいんだ、家に帰ってきて誰かがいてくれたら嬉しいなって思うの」
「プロポーズみたいだね」
「でも別に結婚みたいな束縛がしたいわけじゃないよ、あたしは月子が毎日楽しく過ごしていてくれればいいし……ほら、月子はあたしの推しだから」
「距離が近すぎると見たくないものまで見えすぎるでしょ」
コーヒーも飲みたくなってきた。吸い終わったら淹れようかな。うららは砂糖を少し、わたしは薄めのブラック。飲みながら昼飯の相談をして、午後はどうしよう。うららは二輪に乗らないからだらだらツーリングというわけにもいかないし、うーん。このまま家で映画でも観ようかな。
「大丈夫だよ。だってあたしたち一緒に旅行までしたでしょ。あんな生活がずっと続くだけだよ」
「確かにねえ」
旅行、そうだ夏休み中に旅行をしたんだっけ。うららと……あともう一人。喉の奥から逆流してきた黒い感情を煙と一緒に吐き出して、なかったことにする。なかったことにはならないけれど、今この瞬間見なかったことにはできる。
「やっぱりまだ思い出す?」
「思い出さない日はないよ」
俯くと煙が目に染みて、右目だけから涙が出てきた。自発的に泣くのも目の奥が痛いような熱いような感覚になるけれど、煙が染みるとそれがよりダイレクトに感じられる。お前は今こんなに痛がっている、と突き付けられるような気分になる。
「でもこの問題はわたしのものだから、わたしが対峙して勝たなきゃいけない」
「最近ブロックしたんだ」
ああ、そっか。SNSで繋がってたんだ。そりゃあそうだよな、同級生だもんな。ほとんど全員いなかったことにして卒業と同時に縁を切ったわたしと違って、うららは地元の繋がりも大事にしてたんだ。
「時々連絡が来てて……他愛のないことでね、元気? とか、学校祭でピアノ弾くんだ、とかそういうの。返信はしてなかったんだけど、なんか嫌になってブロックしちゃった」
「大事じゃないの? 地元の繋がり。だから同級生の連絡先も消さずに持ってたんじゃないの」
「地元の有象無象と赤羽月子だったらあんたを選ぶよ」
かっけー女だ。時々自分の影も霞むくらいうららがかっこよく見える。でも確かに、えすえむと天秤にかけられたらちょっと困るけど、地元の有象無象共とうららだったら、わたしでもうららを選ぶに違いないな。
夏休みに傷付いてからもえすえむを続けてきたけれど、うららとこうしてじっくり話す今この瞬間が一番心地いい。結局必要なのは好きな人がいなくなった隙間を別の好きな人で急いで埋めることじゃなくて、布に開いた穴を繕うようにゆっくり直していくことだったんだな。
凍り付いた胸の奥が、靄がかかっていた脳味噌が、少しずつほぐれて温かくなっていく。血が巡っている感覚がする。お腹が空いた。凄く、凄くお腹が空いた。川西のお茶も飲みたいな、次会ったらもっと優しくしないと。
「あのさあ、コーヒー飲む?」
「え、飲む」
煙草を消してから台所に立つ。手を洗ってからドリップ、と言っても電気ポットのドリップ機能で淹れるだけだ。窓辺でうららが吸う煙草の匂いが漂ってきたのでそっちの方を見ると、窓枠に座って朝日を浴びているうららの横顔が見とれるほど輝いていた。
暑いので氷を足して冷たくしてから持っていく。朝日が当たる窓枠は温まって座りやすくなっていた。色の違う足が四本、朝日を反射して光る。人間の肌って明るいところで見ると本当に輝いているから不思議だ、皮脂が反射させているんだろうか。
「コーヒー飲んだら昼飯買うか作るかしたいんだけど、なんかリクエストとかある?」
頬に手を当てて考え込む仕草をしたうららが小さな声で唸る。
「じゃああたしの家に来ない? 新居祝いがてら」
「今から?」
「今から。うち台所広いしさ、材料割り勘で買うから何か作ってよ」
元から割り勘のつもりだったからそれはいいけれど、そういえばうららの家に行ったことって一度もないな。うららがうちに来るのはいつものことなのに。
「行っていいの? うららんち行くの初めてだね」
「今まではままが突然帰ってくることもあったから誘いづらくて……それに」
言いかけた言葉と一緒にコーヒーを一口飲み込む。うららはかなり言葉を選ぶ方だ、わたしなんかは思ったことをある程度のオブラートに包んでみたりするけれど、それでもかなりストレートに伝える方だし。誰にでも当たり障りのない柔らかい態度で接することを八方美人だと揶揄して忌み嫌う人間もいるけれど、八方美人は優しさだ。うららは優しい、もしかしたらわたしなんかよりもずっと。
話の続きを促すこともせずうららが言葉を選び終わってから話し始めるのをじっと待つ。とはいっても普段の日常会話でこんなところを見せることはない。うららが言葉を濁すのは甘えるときで、甘えるのはわたしにだけだ。
「それに、あんまり家を知られたくなかったっていうのもある。皆が皆あたしみたいな暮らしをしてるわけじゃないってままも言ってたし。ね、嫌味に聞こえたらごめんなんだけど、月子だって高い生活水準で暮らしているわけじゃないでしょ」
「それはそうだね、事実だから嫌味だとは思わないよ」
「だから遠慮してたところもあるんだよね」
「うららは優しいねえ」
「そうかな、あたしは月子のことを優しいと思ってるよ」
「じゃあお互い優しいってことで」
顔を見合わせてくすくす笑う。共感で繋がるコミュニケーションっていうのはいい。女は共感の生き物だということを馬鹿にする風潮もあるけれど、結局男も女も人間であることに変わりはないから肯定と共感で繋がるコミュニケーションが気持ち良くないわけがないのだ。
コーヒーを飲み干してシンクに置くとうららが窓を閉めてくれる。何も言わなくても次の動作を察知して先回りしてくれるのも居心地が良くて好きだ。何でもかんでも察してほしい、言わなくてもわかってほしいということはないけれど、ある程度の予測は立てて対応してくれるというのはやっぱりいい。
このままの距離感でうららと仲良くやっていけるだろうか、一緒にいて今まで見えなかったものまで見えすぎるようになっても、今と同じように仲良くやっていけるだろうか。根拠がないことはやっぱり不安だけれど、上手くいくかもしれないという気持ちは少しある。
洗い物は後回しにして服を着る。買い物をしてうららの家に行くだけだからそこまで着飾る必要もない。原付じゃないから短いパンツにいつも通りのTシャツを着て、財布とスマホとエコバッグだけを持つ。
「あ、ねえ着替え持ってきてよ」
「ええ……泊まりの予定じゃないでしょ」
「泊まりの予定じゃなくても!」
うららがそう言うので宿泊用の大きめのリュックを出して、似たようなTシャツとパンツ、替えの下着なんかを放り込む。サンダルを履くから靴下は不要、あと必要なのは……念のためペットシーツも入れておく。
「スキンケアセットはいいよ、あたしの家にあるから」
「入れてないよ、だって泊まりの予定じゃないでしょ」
「うぐ……そうだけど」
喉の奥から笑いがこみ上げてきた。ちょっと意地悪なことを言うとすぐに反応するから可愛い。そうだね、泊まりの予定じゃないよね。そういうことにしておこうね。
家を出てからうららが白切鶏が食べたいと言い出したのでねぎとごま油だけを近くのスーパーで買い、鶏むね肉だけはうららの最寄り駅に着いてから買おうということで合意した。赤坂見附まで行かなければいけないので新宿で乗り換えて、平日昼間の乗客が少ない東京メトロに揺られる。
こんなに人が多い東京なのにみんなが突然誘拐されたみたいに人が少なくて、スーパーのレジも比較的速やかに通れた。飲食店が立ち並ぶ街並みを抜けて住宅街に入り、うららに先導してもらって歩いていく。他人の飼い犬を散歩させているような気分だ、お散歩コースは決まっているから、わたしは周囲と犬の安全のため後ろをついていくだけ。
そんなに高層というわけでもない、でも駅から徒歩十分もかからない場所にうららの新居はあった。もうすっかり手慣れた動作で部屋に上がっていくので、わたしもなんだかただ自分の家に帰ってきたような気分でうららが開けたドアの向こうに足を踏み入れた。
「ようこそ、あたしの部屋へ」
「おじゃましまーす」
新しい木の匂いが鼻の奥に広がった。それからすぐにうららの香水の匂いが漂ってきた。ルームアロマにでもしたんだろうか、フローラル系の甘い匂いでわたしは嫌いじゃない。
「荷物こっち置いて、ここがお風呂、ここがトイレ、キッチン、ベランダ、こっちのドアがあたしの部屋」
「広いね……」
「かなりね! ままはこの程度でいいの? なんて言ってたけど」
「強気だなあ」
「いざって時の隠れ家は絶対にあった方がいいっていうのがままの口癖だから。でね、こっちの部屋が空いてるから、ここを月子の部屋にしてもいいんじゃないかな、って思って」
かち、と静かな音がしてドアが開く。中は窓にカーテンすらも付いていない、本当に何もない広々とした部屋で、フローリングに反射した日光が眩しかった。今住んでいる部屋の二倍くらいはある上、クローゼットもちゃんとついている。
「客室にしてもいいんだろうけど……ね、これなら今使ってるダブルベッドでも余裕で置けるでしょ」
「それは……そうだろうけど」
うららの真っ黒に潤んだ瞳にじっと見つめられる。こうなると断りづらくなってくる、うららの目があまりにも大きくて、輝いていて……子猫みたいだ、なんだか泣きそうに見えるのも断りにくさを助長している。
ここまで言われて今更断る理由も見つからない気がしてきた、実際に住んでみて嫌になったら解消してしまえばいいだけだし、仮にルームシェアが終わったとしてもうららとの関係がそこで終わってしまうわけでもないし。うららの誕生日プレゼントにフリーライドしていいのかとも思ったけれど、うららが決めた部屋なのだし、ということは購入時点で既にわたしが頭数に入っていたんだろうな。
「本当にいいの?」
「あたしがそうしたいから言ってるの!」
「じゃあお言葉に甘えちゃおっかな……」
え、とうららが驚いて言葉を失う。何で自分で言い出したのに驚くんだろう。
「いいの? 本当にいいの? 一緒に住んでいいの?」
「いいよ、いつまでになるかはわからないけど……わたしもうららといると楽しいしね」
「や、やった……やったー!」
うららが抱き着いてきたので受け止め、二人でくるくる回りながらやった、やったと言い合った。今までも一緒にいたのに何がそんなに嬉しいのかはわからないけれど、一緒にいる時間が増えることでうららがこんなに喜んでくれるならいいか。
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嫌いじゃないですよ、あなたみたいなマゾ。