午後十時 放課後

「……そしたらそのクローゼットから聞こえてくるんだよ、外に出ようとして夜な夜な扉を引っ掻く音が」
「ひっ……」
「爪も剥がれて、剥き出しになった指の骨で……かり、かり……開けて……ここから出して……かり……かり……」
「やだやだやだやだ」
「俺が物音を立てたら引っ掻く音が止まったんだよ。そこでああやっぱり気のせいだったのか……と思ったら……バーン!」
「わああああああああああ!!!!!」
 吉田が大きな声を出したところで急に電気が消え、僕と青山さんは叫んで、暴れて、青山さんの手が僕に当たったり、僕の眼鏡が落ちてどこに行ったかわからなくなったり、突然電気が消えた部室内では目が暗さに慣れず、喉の奥から溢れ出てくる悲鳴を抑えもせず右往左往する。
「うるせえ!!!」
 赤羽さんが叫びながらスマホのライトをつけてくれる。そのまま眼鏡を拾い上げ、僕に手渡してくれた。心臓はまだバクバクしているし、青山さんはぐずぐず泣いている。よく見ると吉田もびっくりした様子で膝を抱いていた。
「消灯時間になったんだよ、いいから早く片付けして出るぞ」
「む、むり、ちから抜けて、むり、つきこおんぶして」
「歩け!」
 赤羽さんが僕たちの荷物を投げてよこしてくれる。本人はもう出て行く気満々みたいで、部室のドアを開けようとしている。
「ねえ待って! 開けないで!」
「開けないと帰れないじゃん」
「怖いから駄目!」
「何でだよ……」
「ぎゃああだめだめ開けないで駄目」
 無慈悲な赤羽さんが躊躇もせずドアを開けると、誰もいない静まり返った廊下がスマホのライトでぼんやり照らされて浮かび上がった。遠くに見える窓の向こうでは街灯が灯っているのも見えるけれど、窓がない階段の辺りは完全な暗闇で、今にもあの階段から壁をかりかり引っ掻く音が聞こえてくるような気が……。
「早く出るぞ、駐輪場が閉鎖されるまで二十分しかないんだから」
「やだあ待って置いていかないで」
 青山さんが慌てて鞄を持ち立ち上がると、僕と吉田も置いて行かれないよう必死でそれに続いた。同じ部室で怖い話を聞いていたはずなのに、どうして赤羽さんは怖がっていないんだろう。
「あ、あかわねひゃんはこあくないんれすか」
 顎も声もがたがた震えて上手く喋れない。舌が干からびてぎゅっと縮こまってしまったみたいだ。
「無駄だぞ神谷、こいつホラー映画ばっか観てんだから」
「自分が経験してないことが怖いわけないだろ……早く帰ろうや」
「つつつ月子今日泊まっていい?」
「何でそんな怯えてんの? いつもわたしと一緒に映画観てんじゃん」
「月子と二人で見るのと怪談は別なの!」
 わかんねえよ……と呟く赤羽さんを盾のように前にして、みんなで腕にしがみつきながら廊下に出る。廊下の向こうまで響き渡る自分の足音にさえ一々悲鳴を上げたくなる。ご主人様を盾にするなんて犬失格だ、僕がご主人様の前を歩かなきゃいけないはずなのに。でも今は本当に無理! 赤羽さんは頼りになる、本当にかっこいいご主人様だ。大好きです。ごめんなさい。でも怖いです。
「う、ね、ねえ月子、あたしトイレ行きたい」
「ねえ何で今? 駅ですりゃあいいじゃん」
「無理無理もう漏れる無理お願いお願いお願い」
 心底嫌そうなため息が聞こえた。
「じゃあ神谷と吉田は先に……」
「あああ無理です怖い無理僕も一緒にトイレ行きます」
「お、俺も……」
「何で怪談話してた張本人がビビってんの? おかしくない?」
「で、電気消えるのは……さすがに……」
「赤羽さん僕のトイレもついてきてください、お願いします、何でもしますから」
 とにかく上に行こう、とため息をつきながら階段に向かう。トイレは一階か三階にしかない上、出入り口がある一階には男性用しかない。こうなると一旦上がってから戻るしか道がないのだ。
「全員で女子トイレ入ればいいじゃん」
「ねえ何で⁉ やなんだけど!」
「でもでもでもでも……でも僕……」
「排泄さえできればいいし個室なんだから一回くらい耐えな? もう他に方法ないじゃん、それより駐輪場閉まるとわたし帰れないんだけど」
 青山さんは未だに恥ずかしそうにうーうー唸っている。僕だって恥ずかしいけれど、残念ながら赤羽さんは一人しかいないし、背に腹は代えられない。
 三階もやっぱり電気がついていなくて、全員のスマホのライトで照らしながら一段ずつ上っていく。途中で足音が一人分増えたような気がして小さい悲鳴を上げると、青山さんにかなり本気で怒られてしまった。
 赤羽さんと吉田が水道前で待機、僕と青山さんがそれぞれ個室に入る。全員に聞かれている中での排泄なんて恥ずかしいことこの上ない、吉田は同性だからまだいいけれど、赤羽さんにまで聞かれてしまうなんて……。青山さんが水を流しながら用を足していたのを真似してみることにする。
「足音聞こえなかったか? 今」
 流水音の向こうで吉田が少し怯えたようにそう言うのが聞こえた気がした。僕たち以外にも学生がいるんだろう、きっとそうだ、そうに違いない、絶対にそう。気持ちを落ち着かせていると、僕より先に青山さんが個室から出て行く音でまたびっくりして力が抜けそうになる。
 僕もどうにかして終わらせて手を洗い始める。赤羽さんは相変わらず呆れたような顔をしていたけれど、他の二人は多少落ち着いたみたいだった。それでも相変わらず鏡に反射する自分の姿やスマホのライトにびくついているし、僕も鏡越しに後ろを見ることができなかった。トイレの個室ってどうしてあんなに狭くて怖いんだろう。
「っひ、足音」
「だから他の学生だって……早く帰ろう頼むから」
 青山さんの言う通り確かに足音が聞こえる。僕たち以外にも学校祭準備のために残るサークルがあったらしい。足音はどんどんトイレに近付いてくるような気がして足がすくむけれど、大丈夫ただの学生だし、トイレじゃなくて階段に近付いただけだ。
 そりゃあそうだ、だってもう大学も閉まる時間だし。僕たちだって早く出ないと、赤羽さんの原付が回収できなくなってしまう。
 階段を降りていくと思っていた足音がぴたっと止まり、僕たちの息遣いも同時に静かになる。
「……止まった?」
 青山さんが小さな声で言う。
「守衛さんかもよ、別に気にしなくていいんじゃない」
 赤羽さんが強気に返す。でも僕は聞き逃さなかった、赤羽さんの声がいつもより弱々しくなっているのを。
「でも変ですよ、早く降りないと門閉まっちゃうのに」
「だから早く帰ろうって……」
 ばたばた、と激しい足音が聞こえる。何人かが一斉に走っているみたいで、その音がどんどんトイレに近付いてきて、僕たちのいる女子トイレの個室の前でまた止まる。守衛さんなら一声かけるだろうし、そもそも走ることはないだろう。
 青山さんが今にも泣きそうな顔でどうすんのと口だけを動かして言った。みんなで一斉に赤羽さんを見ると、あの赤羽さんが不安そうな顔で出入り口をじっと見つめていた。
「……月子、もしかして怖いの?」
「いや、大丈夫……わたし霊感ないから」
「お前それ本当に大丈夫なのか?」
「大丈夫だってうるせえなあ、駐輪場閉まって帰れんことの方が怖いわ」
「で、でも震えてますよ、赤羽さん」
「……わたしさあ、お化け屋敷が苦手なんだよね」
 じり、と一歩前に歩き出す。震え続けているのに、それでも前に進もうとしている。赤羽さん、強い、僕も支えないと……でも赤羽さん以上に足が震えて動かない。
「霊はいいんだ、どうせ見えないから。ホラー映画は自分が体験したことじゃないから安心して見られるよ、でもお化け屋敷だけは駄目」
「あ、あかばねさん、あの無理しなくても……僕が前に出ますから」
「でも怖いんでしょ? 大丈夫、わたし強いから」
 うー、と犬のような呻き声を上げながら赤羽さんが一歩、また一歩と出入り口に近付いていく。行きたくないという雰囲気がずっと伝わり続けるけれど、自分がやらなきゃと思って前に出られる赤羽さん、いや赤羽様、僕のご主人様、格好良すぎる。ああ、後光まで見えてきそうだ。
「か……い……」
 か細い声が聞こえてくる。やっぱりお化け、幽霊、怪奇現象、心霊、ああこんなことになるなら般若心経や聖書でも暗唱できるようにしておけばよかった、気が遠くなりそう!赤羽さんがじりじり進んで、ついに出口から一歩踏み出した。
「あ……ばね……せ……」
「あああ喋ってる喋ってる喋ってる無理誰無理無理月子何の恨み買ったの」
「わかんない無理怖いキレそう……ッ」
「キレろよここまで来たら! 見せろお前の底力を」
「うるせえ! この階で殺された漫研の二年生の霊が出るって噂にしてやろうか」
 左右を見回してから手招きをした赤羽さんに続き、僕、青山さん、吉田と順番に出てくる。角を曲がって階段を降りれば外に出られる。大丈夫。何もない、はずだ。赤羽さんがいつもの調子を取り戻したのか、僕が恐怖のあまり放すことができなくなってしまった腕の震えが少し治まったみたいだった。
 たん、たん、と下から階段を上がってくる音が聞こえて短い悲鳴を上げてしまう。
「やっぱり何かい――」
 何かいる、と言いかけた青山さんの声は激しく駆け上がる足音にかき消され、暗闇の向こうから現れた黒くて大きい影に目を瞑ってその場にしゃがみ込んでしまった。
「赤羽先輩!」
「ッあああ! あ゛! 話しかけんじゃねえクソが殺すぞ!!!」
「ぉご」
 多分赤羽さんと出会ってから今まで彼女が発した中で一番大きな声だった。そして薄眼で確認できたのは、赤羽さんは叫びながら握りしめていた拳を迷いなく黒い影に打ち込み、その影がうずくまったことだった。
「先輩ったらひどーい」
「てめーが驚かすからだろうが! ふざけんじゃねえマゾ風情が! 殺す気か!」
「だって愛しい先輩の声が聞こえたから早くお傍に行きたかったんです……半分は」
 あ、生きてる人だった。よかった、お化けじゃなかった……。どうやら赤羽さんの知り合いのようで、スマホで照らし出された顔は極めて友好的な微笑みを浮かべていた。
「もう半分は?」
「驚かしたくって」
「殺す……」
「つ、つきこ知り合い?」
 僕と同じように地面に座り込んだ青山さんがか細い声で問いかける。
「夏休みに知り合った後輩。茶道部の川西」
「先輩のお友達ですか? 初めまして、一年生の川西藤矢です。赤羽先輩のことが大好きです」
 にこにこしながら手を差し伸べてくれるので安心して立ち上がる。青山さんも立ち上がって、さっきと同じように赤羽さんにしがみついた。
「先輩って怖いの苦手なんですね」
「ホラーは好きだよ、自分が怖い体験をするのは嫌ってだけ」
「可愛い~! うちのゼミ、学校祭でお化け屋敷をするのでぜひ来てほしいです」
「殺す」
「うふふ、あっどこ行くんですか」
「駐輪場。帰る」
「もう閉まってますよ」
 えっ、と赤羽さんが焦ったような声を上げる。
「だから僕戻ってきたんです。この棟のドア、もう閉まってました」
「え、じ、じゃあどうするんですか僕たち!もしかしてこのまま帰れなかったり……」
「非常階段行くしかないね」
 赤羽さんはかなり冷静さを取り戻したようで、いつもみたいに眠そうな目で廊下を照らす。そう、部室棟はT字になっていて、一画目の終点のところは非常階段、二階だけは他の棟と繋がっている。
「開くんかな」
「非常階段は普通のドアなので出られますよ。さ、行きましょう」
 川西さんの爽やかな笑顔に一瞬吉田が気圧される。僕たち陰キャのオタクは初対面の人にフレンドリーに話しかけられるとたじろいでしまうのだ。でも川西さんはそんな僕たちのことは気にせず、赤羽さんのことをうっとり見つめて尻尾を振るだけだった。
 ああ、この人も赤羽さんの魅力を知っているんだ。そうでしょう、ご主人様は魅力的でしょう。川西さんが夢中になる理由もわかりますよ。

 川西さんが極めて明るくにこやかに話しかけてくれるのと、赤羽さんが落ち着きを取り戻したおかげで僕たちの恐怖も和らぎ、非常階段まであっという間に着いた。元々そんなに大きくない部室棟だけれど、真っ暗で怖がっているといつもより広く思えてしまう。
 外はむっとする暑さで、駐輪場の閉鎖にもぎりぎり間に合った。川西さんは「間に合わなかったら僕の家に誘うつもりだったのに」と残念そうに言っていたけれど、赤羽さんは鼻で笑って無視していた。
「それにしてもよかったですね、何もなくって」
「んねー、怪談したら霊が寄ってくるっていうもんね」
「大丈夫ですよ、部室棟には何もいませんから」
 そっかー、と青山さんがほっとした様子で笑う。
「……部室棟には?」
 先を歩いていた赤羽さんが振り向いた。皆も歩みを止めて川西さんを見る。彼は涙黒子が目立つ目を狐のようにきゅっと細めて微笑んだ。
「部室棟『には』ね、何もいませんよ」
 皆が一斉に黙り込む。風の音も横断歩道のチャイムもタイミングよく全て聞こえず、時が止まったのかと錯覚するくらいの静寂だった。
「……ねえ月子、やっぱりあの……泊まっていい?」
「あ、あの僕も……」
「赤羽……」
「いや今更だろ……別にいいじゃん、どうせ見えないんだし。見えないものはないのと同じ! 解散! また明日!」
 それまでずっと僕たちに合わせて原付を押しながら歩いていた赤羽さんは急にエンジンをかけ、がちゃがちゃとギアを変えながら走り去ってしまった。
「……僕は駅までご一緒しますよ、先輩方」
 川西さんがにっこり笑う。僕たちは多分三人とも怖くて仕方がなかったけれど、かといって三人だけで夜道を歩く勇気もなく、川西さんのあとを歩いていくしかなかった。明日は絶対に赤羽さんに泣きつこう。

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水曜日
嫌いじゃないですよ、あなたみたいなマゾ。