金曜午後四時 前夜祭
がちゃ、と誰もいないはずの部室のドアを開けると、赤羽さんがどこから見つけてきたのか薄手のタオルケットに包まって目を閉じていた。夕方の太陽はオレンジに近い黄色で、赤羽さんの腰の辺りを暖かく照らす。
「赤羽さん」
声をかけても起きる気配がない。靴を脱いで赤羽さんの近くに座り、でも勝手に触れるわけにはいかないから、赤羽さん、と再度呼びかけると、ただでさえ眠そうな彼女の目が普段よりも眠そうに薄く開き、二度、三度と瞬きをする。それから視線を上の方、僕の顔に向けてずっと移動させた。
「はるちゃん……」
まだ半分寝ているような眠そうな声で名前を呼ばれる。赤羽さんの声はいつでも素敵だ。寝起きの今だって低くてかっこよくて、二人きりのときだけの呼び方で僕のことを呼んでくれる。
赤羽さんの前にいるだけで脳のスイッチがマゾに切り替わって、人間の部分が溶けそうになるけれど……部室なのによくない。それに用事があったことを思い出し、首を振って気持ちを切り替える。
「前夜祭の前に漫研の皆でご飯でもって話なんですけれど、赤羽さんも呼ばなきゃと思って」
「んーわたしはいい……みんなで行っておいで」
「赤羽さんが行かないなら僕も行きません」
「飯はちゃんと食え、そんなに細身なんだから」
でも……と呟いてみるけれど、赤羽さんが大人数が苦手だってことくらい僕もわかってる。一緒にご飯が食べられたら嬉しいけれど、強制はしたくない。寝ているところを邪魔してしまったし、赤羽さんは寝足りなさそうに重い瞼を閉じてしまった。
「じゃあ四人で行きませんか、吉田と青山さんと」
んー、とさっきよりも長い唸りの後でゆっくりと折りたたまれていた腕が伸び始め、極めて丁寧でとても長い欠伸と伸びが行われた。黄色の夕陽に照らされた赤羽さんの肌はまるで絵画のように輝き、いつも僕のことを噛んでくれる歯と舌の上のピアスが光を反射し、今この瞬間を写真に収められたらどんなにいいか、と思った。
「……四人だけならいいよ」
「じゃあ今から連絡します!」
そう言って急いで四人のグループにメッセージを送る。すぐに既読をつけたのは吉田だけで、今向かってます、というスタンプが送られてきた。赤羽さんは目を擦りながら体を起こし、壁に背中を預けて眠そうな目で虚空を見つめていたと思ったら、突然左手を僕の方に伸ばしてきた。何か掴みたいような手の形だ、多分水筒だろう。
水筒を手渡すとごくごく飲み始め、唇に残った水滴を指先で優しくぬぐう。指で押された唇は柔らかく形を変え、僕は赤羽さんにキスをされた時のことを思い出した。今週の火曜日のことだったのに、もう遠い昔のことのように感じられる。
僕の目線に気付いた赤羽さんは水滴をぬぐった指をそのまま僕の唇に押し付け、まるで口紅でも塗るように動かし、戸惑う僕を見てふっと微笑んだ。そんなことをされると思っていなかった心臓がどきっと跳ね、ああこの人には勝てないなあ、という幸福で全身が満たされていく。
「どこでご飯にするの」
「あ、ど、どうしましょう……近くの店……は混んでるでしょうしね、きっと」
どこでもいいよ、遠くでも、と赤羽さんがあくびをしながら言い、僕もスマホを開く。金曜日のこの時間ならどこも混んでいそうだけれど、少し足を延ばせばどこかすぐに入れる場所があるかもしれない。そうしてお店を探しているうちに吉田が来て、お店探しに加わった。
青山さんからの連絡は未だにない。返信はおろか既読さえもなく、空腹が限界に達した僕たちは仕方がないから三人で行こう、ということになった。そうしてあそこは、ここは、と探し回ったものの大学付近のマックということで合意し、僕たちは部室棟を出ると学校祭前日の喧騒を背中に聞きながら歩き出した。
まるでフィクションみたいな夕方だった。赤羽さんが昼寝をしたくなるのもわかる、太陽は西部劇のような茜色に染まり、暑すぎず寒すぎず、僕たちの肌を赤く照らす。半袖から露出した肌や顔は湿気でぺたぺたになるけれど、それでも三人で話しながら歩く時間は何物にも代えがたいものだった。
マックの中はやっぱり混んでいたけれど、どうにかして三人分の注文を済ませ、人混みが苦手な赤羽さんが外で待つというので、騒々しい店内に僕と吉田だけが残った。ネット注文にしたらよかった、と今になって思い至った。
「お前さ、割と尽くすタイプだよな」
「僕は赤羽さんのマゾですから! ふふん」
「何でそんな誇らしげなんだよ」
「誇らしいですよ」
僕より少し身長の低い吉田のことを見下ろす。前ならきっと何とも思わなかったのに、人を見下ろすのが何となく落ち着かなくなってしまった。これも赤羽さんが調教して僕のことを作り替えてくれたおかげだと実感する度に嬉しくなる。
「首輪が着いているのって安心するんです、やっぱり。首輪を着けてくださった方があんなに素敵な赤羽さんなんですから、なおさら」
「……よくわかんねえ」
吉田は気まずそうに視線を逸らすけど、耳が赤くなっているのは隠せない。
「でも吉田だって役に立てたら嬉しいでしょう?」
「その聞き方、赤羽みたいだな」
「ふふ、人って一緒にいる時間が長くなると喋り方の癖が感染るんですって。赤羽さんが言ってました」
やっぱりわかんねえよ、と吉田が言う。多分本当にわからないわけじゃない、と思う。だって吉田もマゾだ。僕と一緒に気持ちよくなったことだってある。あの日、赤羽さんが吉田を呼び出したら素直に応じたのだと教えてくれた。
吉田だって、誰かの役に立てたら嬉しいはずだ。何かをしてお礼を言われて嬉しくない人なんていない。僕のそういう感情が赤羽さんに向いているというだけで、基本的には皆そうなんじゃないだろうか。だから呼び出しに応じたんじゃないだろうか。
二つの袋に分けられたドリンクとハンバーガーを吉田と手分けして持ち、赤羽さんのところへ向かう。自動ドアが開くと赤羽さんがスマホから顔を上げ、僕のことを労うようにふっと微笑んだ。それだけで尻尾を振ってしまうのが自分でもわかった。
「ね、蔡老师が教授室のある棟の屋上は人がいなくてお勧めだって教えてくれたよ。そこでご飯食べて花火見るのはどう」
「いいですね、きっと迫力満点ですよ!」
「じゃあ早く戻るか」
ちょっと待っていただけだと思っていたのに日はかなり沈んでいて、向こうの空は藍色に染まり始めていた。綺麗だね、と赤羽さんが呟く。そうして遠くを見つめる赤羽さんの目が綺麗だったので、綺麗ですね、と返した。
赤羽さん、学校祭には来ないつもりらしい。やることがないというのも、人が多いのが苦手だというのもあるらしいけれど、本当に一人にして大丈夫だろうか。夏休みのこと、まだ引きずってはいないだろうか。心配でずっと赤羽さんの顔を見ていると、視線に気付いたのか僕のことを見上げて首を傾げる。
「あの、大丈夫ですか」
口を開けずに鼻の奥でんー? と聞き返される。
「いえ、一人でも大丈夫かなと思って……」
「わはは、忠犬くん」
「わん!」
冗談めいた口調だったけれど、思わず鳴き声で返事をしてしまった。赤羽さんが嬉しそうに笑ってくれるので、つられて僕も嬉しくなる。
「大丈夫だよ」
「でも……」
「朝から晩までバイトだしね。それに前に比べたら随分落ち着いた方だよ、これでも」
じゃあ大丈夫、だろうか。赤羽さんの顔を見ても何を考えているかはよくわからない。でも夏休みの時ほど辛そうには見えないし、駄目な時ははっきり駄目だと言う人だというのもよく知っている。
「わたしの心配はせず楽しみなさいな。しっかり売るんだよ、部誌」
「は、はい! 頑張りますっ、赤羽さんのために!」
先を歩いていた吉田がちらっとこちらを振り返る。わからないことないでしょう、吉田。僕は役に立てると嬉しいんです。それが赤羽さんならなおさら。吉田だってその気持ちよさを知っている、そうじゃないんですか。
大学に辿り着くと中庭はもうお祭りムードで、ミス・ミスターコンテストの出場者を紹介しているところだった。次に呼ばれた人の名字が『川西』で、なんだか聞き覚えがある、と思ってステージの方へ目を向ける。
「あれ? あれって赤羽さんの後輩くんじゃ……」
声をかけようとして赤羽さんがいないことに気付く。辺りを見回すと赤羽さんはステージは目もくれず、お腹が空いていたのだろうか、心なしか普段より早く本館の方へすたすた歩いているのをやっと発見して、僕たちも慌てて人混みをかき分けながら後を追う。
陽が落ちて辺りが暗くなった上こうも人が多いと、全身が真っ黒の赤羽さんを見付けて追いかけるのはかなり難しい。でも僕は赤羽さんの犬だからしっかり目を離さず追わないと。
食事のためにテーブルを囲む学生には目もくれず、僕たちを待つこともなくエレベーターのボタンを押す。遅れないように走って追いつくとようやく赤羽さんが振り向いた。
「なあ! あいつお前の後輩だろ、一年の川西って」
「あー……多分ね」
「ミスターコン出てるんですねえ、確かにかっこいい人ですもんね、身長も高いし」
「かもしれないね」
「いいのかよ応援しなくて」
いいよ、とそっけない返事をしながらエレベーターに乗り込む。
「別に興味ないのに、ねえ。応援したって意味ないでしょ」
「えーでも嬉しいんじゃないですか? 川西さん、赤羽さんのこと大好きじゃないですか」
「どうかな」
本当に興味がないみたいで、何度かあくびをしながら適当に僕たちの話を躱しているうちにエレベーターのドアが開き、僕たちは本館の最上階に降り立った。
エレベーターを降りるとすぐ左手の壁が一面ガラス窓になっていて、そこから屋上に出られる。確かに人は全然いない、みんな中庭のステージが見たいんだろうか。
ベンチも何もないので屋上の床にそのまま座り込む。赤羽さんは空になったビニール袋の上に座り、吉田はそれを見て賢……と呟いた。まだ暖かい日が続く十月とはいえ夜の屋上は結構寒くて、花火が終わったらすぐに解散しようと三人で言い合う。
「へーえ、お前の後輩結構人気あんじゃん。今得票数一位だってよ」
「可愛い顔してるからね」
「それは……多分、赤羽さんの前でだけじゃないですか」
赤羽さんが肩をすくめて気まずそうに目を逸らす。僕も最近意識をすると学内でよく見かけるようになったけれど、学内ですれ違う川西さんはどこか寂しそうというか、疲れたような顔をしている。周りをお友達に囲まれていたり、一人でいたりするけれど、どんな時でも少し疲れたような目でどこかをじっと見ていて、僕に気付くとちょっと微笑むけれど、それでもやっぱり幸せそうには見えない。
「僕が見るときの川西さんはいつでも疲れているように見えますよ」
「……それは、わたしも知ってる。最初に会った時からそうだよ、凄く疲れているのを隠すような目をしてる」
大丈夫なんでしょうか、と言おうと思った丁度その時に聞き覚えのある名前が呼ばれ、僕たちは急いで立ち上がると金網の隙間からステージを見下ろした。ステージから伸びたランウェイを歩いていく小さな影は、間違いなく僕たちの同級生であり赤羽さんの親友、青山さん本人だった。
「青山、ミスコン出てんの⁉」
「わたしも知らなかった、通りで連絡つかないわけだ……」
「お、応援! 応援はいいんですか⁉ 同じゼミの、お、同じサークルの仲間なのに!」
「いいだろ、もう終わりだよ出番」
吉田にばっさり切り捨てられたけど確かにそうらしい、僕たちは金網から離れてハンバーガーを食べる方に戻った。あとは知らない人の名前が呼ばれ、投票を呼びかける言葉で締めくくられていった。
「……花火何時なんだろ」
ステージのスピーカーから流れる大きな音の合間に赤羽さんがそう呟いたのが聞こえた。大きな音が苦手だと言っていたし、それにご飯も終わって手持ち無沙汰になったんだろう。
「まだちょっと時間ありそうですよ、煙草ですか?」
「うん、時間あるなら行こっかな……」
「大丈夫だと思う、八時とかだったし、多分」
「八時……」
若干引いたような口調で赤羽さんは呟き、スマホで時間を確認する。十月になってから日没が早まったけどまだ七時にもなってない、喫煙所まで往復しても全然余裕がありそうだ。
「……部室に戻ろうかな、寒いし。屋上って風が強いね」
「あ……そうですね、確かに……じゃあ僕も戻ろうかな」
「俺も、風邪ひきそう」
軟弱だなあと赤羽さんが笑い、僕たちは外に出ないルートで屋上から部室に移動することにした。
学内は暗くて静かなものだった。とはいえ締め切られているわけでもないから、学校祭用に明かりを落としているだけだろう。この前みんなで怪談したときのことをなぜか思い出してしまって、急いで向こう側に追いやる。あの時は結局お化けじゃなくて川西さんだったけれど、その川西さんが部室棟には霊なんかいないと言っていたけど、それでも怖いものは怖い。
赤羽さんのTシャツの裾をぎゅっと掴むと、赤羽さんは大丈夫だよと伝えるように背中をとんとんしてくれた。それから部室の電気をつけるまで一緒にいてくれた赤羽さんは、電気がついたらもう大丈夫でしょ、と言い残して一人で喫煙所に向かった。
「お前、そんなに怖がりだっけ?」
「え、まあはい……怖いですよ、暗いところもお化けも」
「ふーん……」
「赤羽さんがいなければ屋上にだって行きませんしね」
赤羽さんが一緒にいるから暗い所や高い所にだって行ける。赤羽さんが僕の首輪にしっかり繋がったリードを持っていてくれるから、安心して歩ける。
「首輪ってそんな効力があるんだな。なんかRPGの装備みてー」
「必須であり標準の装備ですよ、僕にとっては」
ぽこぽこ、と通知が鳴り赤羽さんからメッセージが来たことを教えてくれる。
『おい誰だよ花火八時からっつったの。もう始まるじゃん』
「え、よ、吉田!」
「えー八時だと思ったんだけどな……じゃあ出るか」
荷物は全て部室に置いたまま、急いで靴を引っかけて外に出る。もう一発目の花火が上がったみたいで、窓の外から差し込む光が赤や緑に変化していた。
「ていうか赤羽は? まだ喫煙所なんか?」
「た、多分……」
下の階からぺたぺた鳴る足音と話し声が聞こえてくる。青山さんの高い声が階段を上がってくる。赤羽さん、戻ってきたんだ。青山さんも一緒に。
「誰だよ花火八時からって言った奴、全然嘘だったじゃん」
「ごめんて……」
吉田が冗談交じりに謝り、赤羽さんが僕の隣に来る。廊下の端の小さな窓からはあんまりよく見えなくて、やっぱり本館の屋上に戻ろうか、いやしかし、と思っている間に花火の勢いが増していき、気付けば終わりかけのような雰囲気になっていた。
ああ、僕は駄目なマゾだ。駄犬だ。僕が花火の時間を正確に把握していれば、こんなに小さな窓からぎゅうぎゅうになって見えにくい花火を見上げずに済んだのに。
俯くと赤羽さんが僕を見上げていた。花火に照らし出される目が何かを言いたそうにじっと僕のことを見つめていて、僕は謝りたいのに言葉も出てこずただ見つめ返すことしかできない。
「大丈夫だよ」
何の前触れもなくそう言われる。
「ごめんなさい、僕がちゃんと把握していれば……駄目駄目です僕は……」
「いいよ別に、そこまで滅茶苦茶花火が好きってわけでもないし。みんなで一緒に見られただけで充分だよ、ね、うらら。吉田も」
「ねー、あたしもみんなで見られて満足! 来年も一緒に見られたらいいね、前夜祭の花火」
「だな。ここからでも充分見えるし」
だから大丈夫だよ、と赤羽さんが優しく声をかけてくれて、僕は申し訳なさで縮こまった心臓がゆっくりと元に戻っていくのを体の内側で感じていた。大丈夫、赤羽さんの大丈夫には魔力がある。言われると本当に大丈夫に感じられる。ああ、赤羽さん。赤羽様。僕のご主人様。
リードの代わりに手を繋ぐ。来年もご主人様と一緒にこの花火が見られますように。