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【雑話】"おきもち"のネガティブ性まで受け取らなくてもいいんだよ

TwitterにしろVRChatにしろ、現実の政治対立や人のうわさ話にせよ。
時々、わたしたちは攻撃力の強い"おきもち"を見かけてしまっては、げんなりしてしまうことがある。これを読んでる人においても、そんな記憶に覚えがきっとあるんじゃないかな。

ここ最近も、選民思想の是非や有無とかコミュニティへの貢献とか、何者かになりたいとか、関係性とか挨拶の有無で人間性がわかるとか。方々に様々な話題におけるおきもちをよく見かける。
ただ、"おきもち"のそれ自体が悪い事だとはまるで思ってない。
どれだけ拙くても冗長でもいいから、言葉による思考の整理が無ければ、なにより自分が前に進まない。この文章だって、そんなきらいで書いている所もある。世の中に真の意味の正解や正義なんてまるでないので、そういう人だっていてもいいんじゃないかな。わたしだって真人間じゃないんだし。と、できるだけ思うようにしている。
(それが外から見れる媒体で書かれているならば、できるだけ他者に誤解をされないよう努めてほしいなとは思うけれど…)

ただ、普段そんな認識をいくらしていても、人間どうしたって。
自分の居場所や嗜好性、好きな人・モノ・過ごす時間、あるいは空気。
そんなものに対して、嫌悪を示したり懐疑的な意見を並べたり、批判を投げかけるような意見を見かけると『ひょっとして攻撃されてる?』『何この人?なんでこんなこと言うんだろう…』と言ったもやもやした気持ちを引き出されては、心をそわそわさせてしまう生理があるのは決して否定できないとは思う。わたしもついつい、そんな感情を抱いてしまったりするし。
このNoteは、こんな時わたしはどう考えているのかというそんなお話。


人はおきもちを見る時『何を感じて』->『どうしたいか』の連結した2感情が引き出される

否定的な"おきもち"が自分に特に刺さらない時。
言うまでもなく、この時は特に問題ない。
その文章に対しては、ほとんどの場合何もせずスルーして終わることだろう。

否定的な"おきもち"が自分に刺さってしまった時。
この時は反射的に防衛機制が働くことで、目にする情報に対し何かしら干渉をして、自分の内なる心を守ろうとする動きがある。
文字面のまま否定の感情を受け取っては、ダメージが大きいからだ。

感じることや、その先につながる行動はもちろん人によって異なる。
同じ人間でも、その日の体調や精神状態によっては 違う感情・行動を引き出されることがあるかもしれない。
例えば、このように。

  • 『はぁ、強めのお気持ちが出たなぁ…』->『気持ちを乱されたくないから先行ブロック・ミュートしよう』(逃避・否認的行動)

  • 『またよくわかんないこと言ってる人がいるなぁ』->『とりあえずネタツイでこの話題に乗っとくか』(ユーモア的行動)

  • 『好きな場所をこうして否定されるのは許せない…』->『いい場所を理解できないのはこの人に問題があるからだ!』『ここがいい場所だって何としても理解させてやる!』(分裂・価値下げ的行動)

  • 『こんな奴の書く記事なんて良くないに決まってる! 』->『(本当は読みたくないけど)一度読んで批判し返してやるぞ…』(反動形成的行動)

このうち、とりわけTwitterなどのSNSにおいては。価値下げ的・反動形成的な行動をしばしば多く見かけることがある。VRChatの話題に限らず、過激な政治的トレンドや、性別・性差による話題などにも同じように見受けられる。いわゆる『嫌いな人や物事をついつい見に行ってはストレスを貯めちゃう』行動として、現れてしまっている気がする。

件の"選民思想"の話題においても、激しめの言及やリプライ、反証記事を沢山見かけた。ただ、今回は普段穏やかな人だったり、あまり激しめの話題に言及しないような人達までもがつい筆を動かしてしまっているのが、わたしは少し気になった。
本当はおきもちなんか気にせずに、今まで通り自由に穏やかに過ごしていたいのに、ついおきもち記事から自分の防衛機構を刺激されて、本来の嗜好に沿わない行動を引き出されてしまってはいないかな、と。
本心からそれをやりたい。議論の末正解を探してやりたいと思っているのならば何も問題はないのだけれど、本当に本当に好きだったり、救われた思いがあったりする場所だから、ついその場所や自分の気持ちを守ろうとして、見かけたおきもち記事から 必要以上に攻撃性をくみ取ってはいないかな、と。
ここに救われた同じ者として、その気持ちがよくわかるから。

だから、こんな感じで強めの"おきもち"を見かけてしまった時には。
1段目には『そんな人もいるんだなぁ』『それもまた解釈の一つだよね』という、ある種の寛容・無関心を置いた上で、2段目に『これを見てわたしはどうしたいのか』の2ステップで考えたいよね。みたいな話。

おきもちは『これを見たわたしは本来どうしたいか』でパリィしたい

自分と他者を区別するもの、違いでありその違いを守るもの、つまり「私は私」という境界線がバウンダリーです。

https://co-coco.jp/series/study/boundary/

過ごし易いTwitter・SNSの使い方 の記事でも似たことを書いたけれど、とかく今は刺激的で攻撃的なトレンドがインプレッションを集めやすく、それにより気を抜くとタイムラインに『皆この話題を話しているよ! ねぇねぇちょっと見てかない? ついてるリプライはこんな感じ!』のサジェストされることがとても多い。こんな時、思い悩みや強いストレスに晒されていたり、たまたまその日が寝不足だったり病気の日だったり、そうでなくても自分と親しい人がみんなしてその話題をしているのを見かけてしまうと、ついつい自分のバウンダリーが揺らいでしまい、時に見たくないはずの文章を見に行ってしまっては、必要以上に"おきもち"の攻撃性やネガティブ性を受け止めてしまって、しょんぼりしてしまったり、反対に怒りの感情に駆られたりすることがある。

でも、生きる上で過ごせる時間とできる事には限りがある。人間一人の両手で持てる物事は、さして多くない。
強く感情を揺さぶられるからと他人の感情ばかりを受け止めてしまい続けては、自分の事はついつい後回しになってしまい、自分の本当に大事にしていた物事や人に時間がかけられなくなったり、関心がかけられなくなったりしてしまう。
そうなることによるストレスは、再びバウンダリーを侵してしまい、よりどこかの誰かのおきもちやそのネガティブ性を受け止めて、またバウンダリーを揺らがせてしまう…  そうなってしまう危うさが、今の時代気を抜くと本当に訪れてしまいやすいと思う。
なので、そんな時は『わたしは本来どうしたいのか』を軸におきもちをパリィしよう。

そんな本懐を忘れないためには、攻撃的な文章に対してある種の無関心・寛容さを抱くのが、多分大事なのだと思う。
先述したおきもちを見た時に引き出される『何を感じて』->『どうしたいか』の2感情の1段目に、そうしたものを意識して置いてみるのだ。

どこかで顔も名前も知らない誰かが、自分の好きな場所を批判している。
仲の良い人や界隈を貶している。懐疑的な目線を向けている。嫌いだと発言している。もしかしたら。ひょっとしたら。自分もその中に含まれて攻撃されてるのかもしれない。
そうした疑いの気持ちに『そんな人もいるんだなぁ』『それもまた解釈の一つだよね』と。この人は自分ではない。自分とは違う存在で、自分とは違う時間を生きた果てに、この文章を書いているのだ。という、唯一間違っていない事実だけを認識し、ただそれだけを受け止める。
この感情から、2段目の『どうしたいか』を分解していくと。フラットな気持ちで『わたしは本来どうしたいのか』を考えやすくていいんじゃないかなと思うし、わたしはよくそうしてる。

わたしの場合は、あの選民思想の記事を一度は見てみようと行動した後で、あの記事の趣旨に沿う言及は何一つせず、今まで通り自由に過ごそうと決定した。
わたしの過ごした時間として。VRChatに多くいるクリエイターさんが作る、人の話や作るモノに対する自由で寛容的な空気感にとても救われたからだ。
ワールドを作ったりアバターを改変するどころか、日常の話すら自由にできず、挨拶するだけで緊張いっぱいで汗ばかりかいてた頃。親切なTrustedユーザの人々に、現実だったらつい恥ずかしくてなかなか言えない些細な挑戦を全力で褒められたり、さらなる挑戦をささやかに期待されたり、ちっぽけな悩みをうんうんと聞いてもらったりしたことに本当に救われたし、とても自分を大きく強くしてもらった。他にも同じようにそんな空気感に救われた人は少なくないと感じているし、今の盛り上がりもそんな自由さから作られたものじゃないのかな。と勝手に考えてる。

なので、わたしはかつて見たTrustedユーザのそんな自由ではつらつとしていて、とても大きく強かった背中のように。自分の思う過ごし方で自由に過ごし、自分の作りたいものをこの世界に作り続けたい。そんな空気の尊さを、いつかどこかで、過去のわたしのような人に感じてもらえたらいいな。ということを、感じて行動するようにした。
わたしはそのように、あの話題にまつわる"おきもち"に対して、パリィをして受け流すことが…  たぶん、できたのだと思う。

まとめる

このNoteでは。そんな感じで強めのおきもち文章を見かけてしまった時。わたしが何を考え、どうパリィしているのかについてを記載した。
強めのおきもちを見た時、そこから学びを得ても、相手の攻撃性やネガティブな感情までもを受け取る責務は、ほとんどの場合バウンダリーの越境であり、わたしたちの中のどこにもないということを 自戒を込めて書き留めた。

込み入った自己批判や研鑽、難しい事柄を考えることは、きっとわたしに言われるまでもなく。各々がすでに現実の仕事や物事で、十二分に頑張っていると思う。
なので、わたしはわたしの思う過ごし方をすればよいし、貴方は貴方の思う過ごし方をして、現実から離れた場所でぐらいは快適に過ごした方が絶対に良い。わたしは基本的に自由に、しっとりゆっくりしたお話をしながら、難しい事に囚われず過ごしていたいし、こう思ってる人は少なくないとは思うけれど、自分自身がそう望むのなら、現実でするような組織運営やマネタイズについて議論を深めたっていいし、その中で哲学や真理らしきものを探したっていいのだと思う。
それが自分の時間を進めたり価値を高めたり、そうでなくても快適でいられるのならば。それはきっと自分の人生における"正解"らしきものだと思うし、これを見ている誰かには誰かにとっての違った"正解"があるのだと思う。それは戦わせるべきものではなくて、それぞれ違う軸があっていい。
それでいい、それがいい。

そんな風にして、この世界がより穏やかになってほしい。そんな気持ちの発露。

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