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関係性における"運動の法則"の例えから思考を整理したいというお話(#100DaysOffLoad 2)

関係性やコミュニケーションを例える様は三者三様、十人十色。「商取引」だったり「契約」だったり「関心の送受」だったり。こういう話からその人のあり様を推し量ったりするのは、少し不躾ながら好きだったりします。

わたしの思う関係性の例えは「運動の法則」。力を加えない限り止まってるものは止まり続ける。摩擦力を超えた力を加えると動くし、力を加える限りその力量に比例して動き続ける。という、誰でも物理で聞いたことのあるその概念に一番近いイメージを持っています。

誰しも最初は止まっているところから始まるし、始めざるを得ない。どの場所にどういう力をかけたいかは好みによる。さて、一度動き出すと「力を加えるとちゃんと反応があるんだ」と学びや自信がついて、他の場所、あるいは他の物にも力を加えたくなるかもしれない。

そんなことを繰り返していると、気づけば両手両足がふさがっている。もうこれ以上同時に何かをやることは限界だ...  というときに、どうしても選択を迫られる。対象を選別するか、時間をならすか。時間をならすのなら、両手両足で足らないのだから、それぞれを少しずつ順番に動かしてみよう。ある時はこの四角を。ある時はこの三角を。ある時はこの丸を。だめだ。止まってしまっては動かすのがまた大変になる。ほんの少しだけでも力はかけていなければ。止まることで近づきにくくなりたく無い。どうか、どうか、どうか... と、気がついたらその場所での癒しや学びを求めているのか、自らがただ承認欲求を振りかざし、歪な「受け入れて」を醸してしまっているのか。時々わからなくなることがある。特にわたしは一度気持ちを壊してから極端に疲れやすくなっていて、おそらく人の半分程度しか活動することができないので、なんというか...  余計にこういうイメージがあります。

「愛着と愛着障害」という本の中では、高度な段階欲求に挑戦するために、低層の欲求を受け入れてもらう(拠り所/不安の解消ができる)場所の例えとして【基地】という例えが使われていました。わたしにも、それが無いわけじゃ無い。それでもなんというか、わたしが居心地がいいと思っている場所へあまり執着をしたくなくて奔放に飛び出して見ることが多い。多分"天 〜天和通りの快男児"に出てきた、死に際の赤城のセリフに多分に影響されている。自分の業績や成功を讃えてもらうことは生命を安定させるが、その分自己がその成功に縛られ、いつしか「生きたかった幸せとしての自分」ではなく、「イメージを持たれている自分の像」を生きようとする。それって本当にやりたかったことか? というお話。

でもそれをやったところで結局こういう焦りが時々顔を覗かせる。多分、周りの人間は自分が思っているほどこういう心配はしていないだろう。普通に過ごしたい時間をVRCや現実で過ごしているだけだ。でもどうしてもどこか心配してしまう。憂いでしまう。満足する幸せとはやはりままならないね。と行った思考の整理でした。

だからこそ、普段遊んでくれたり、しんみりお話してくれたり、何かしら相談してくれたりしてくれる人は本当にうれしいなって思っているし、いっときは食べる寝ることも満足にできなかった人間がここまで起き上がれたんだなとこっそり感傷に浸っていたりします。 いっぱいいっぱいありがとう。

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