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隣にいたあなたへ

じとじとした暑さが世界に滲み出す初夏。6月。
いつもやるように車のエンジンをふかすと、ふと、今日からは隣に"彼"の姿がない事を思い出す。
先日バタバタと施設での手続きを終え、許可証を貰ったばかりであるせいか、今日この時にまるで現実感がなく、足がふわついてしまうようだ。
仕方ない。いずれはこうなっていたんだ...と、どんよりした空模様と一人分空いた左側のさみしさをごまかすように、ミラーで一通り髪を直して、わたしは車を走らせることにした。

走り始めからしばらくして、小さな商店街のある街はずれに入る。彼とのドライブの最中、よく通っていた道だ。
小さいころに私はこのあたりでよく遊んでいて、運転をしながら彼にしばしばその話をすることがあった。
幼稚園の頃にとっても憧れた、ウェディングドレスのマネキンを飾ってた仕立て屋さんの話。
小学生の頃によく少女漫画を買いに行った、少し癖のある本屋さんの店主の話。
中学生の頃に友達と立ち寄った、コロッケのおいしいお肉屋さんの話。
今マイブームを極めてやまない、おいしいフラペチーノを出してくれる喫茶店の話...

そんな話をいろいろとしていたら、ちょっと車を止めようかって言ってくれて
私の思い出のコロッケを買ってくれて、一緒に食べたことがあったよね。
「滅多にサービスしないんだからな。皆には内緒だぞ。」って言ってくれて。びっくりしたけど、うれしかったな...

商店街の街もさらに背中にして、私はふと、遠回りの山間の道を走りたくなった。
普段ならこのまま大通りを行けば帰れるのだけど、今日はあの人と巡った道々を思い出したくて。

パラパラと降る雨を黙って受け止める、すっかり葉桜になってしまった並木を見ていると、また日々が浮かんでくる。
あの時...ちょうど春だったのもあって、よく運転しながら満開の桜を眺めていたっけ。
彼は心配性だったから、「桜じゃなくてちゃんと前を見ないと!」なんてそわそわしながら、私のおおらかぼんやりを嗜めてくれたよね。

次第に私が運転に慣れてくると心配性も落ち着いてきたのか、一緒に桜を眺めてくれるようになったりして。
「かわいい君と綺麗な桜並木をドライブ出来て、俺は幸せ者だなぁ。」って、コッソリつぶやいたあの言葉。今でもよく覚えてるよ。

...あれ? おかしいな...ちゃんとワイパーしてるのに、景色がまだ水で濡れてる...

思うまま思うとおりに車を走らせた私は、いよいよ諦めをつけて家に車を停めることにした。
長い旅路に幕を下ろすかのような心持ちでエンジンを切り、いつものように玄関を開ける。

「おかえり。...免許証忘れて行ってたから、何もなくてほんとによかったよ...」
留守番をしていた彼氏が、そわそわしながら右手でこちらに何かを手渡してくる。

【令和xx年 7月7日まで有効 眼鏡等】

「"先生"が知ったらきっと怒るよ。うわつくのもほどほどに。」

私の緑の免許証。
そうだった。合格したのがあまりに嬉しくて、昨日机の上でずっと眺めてたんだっけ...

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