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【雑話】関心引きの情報と、それらからもたらされるスリップダメージ

■ 元号が変わってしばらく経ち、資本が潤沢につぎ込まれたモデルの生成AIが暮らしに浸透し始めたこの時代。そんなAI分野を始めとしたさらなる情報革新は、インターネットの巡回中に目にすることのできる情報量を殊更に引き上げることになった。

■ そんな時代の中、気づけばタイパ(タイムパフォーマンス)という言葉が作られ、また使われるようになった。人生を5周しても全て賄いきれないほどのコンテンツ供給過多なサブスク配信サービス。何の背景も資金も持たない一般人でも気楽に何かを発信することができるほど敷居の下がった情報発信の技術。何かしらの指針や地図の無いままふらふらとそんな海を航海することは、確かにこの時代ではもう愚かなことかもしれない。
それ故なのか、ここ暫くはいつにもまして。『これこそが正しい生き方である』というライフハックのような情報が。また、『この情報にリーチしなければ大損だよ!』と過剰なほどやたらとこちらの共感・関心を引こうとする気質の情報が。多く溢れてきているように感じる。
広告やプロモーションの類には、特にその気質を感じる。コンテンツ供給過多なのと合わせ、この国に存在する人間がゆるやかに減りつつある傾向、タイパという言葉がもたらす世間の無意識が、より『今のうちに興味関心を確保しなければ損をする!』といった行動につながっているのだろう。

■ Xを指で数フリックすらすらすらーっと掘り続けているだけでも、そんな情報はたくさん見かけることができる。詐欺呼ばわりされないためだけに申し訳程度にだけ実装してるミニゲームの失敗映像ばかりを流すゲーム広告。ほんとに普段その値段だった?と言いたくなるような割引率をアピールする通販広告。(任意のコンテンツ)に傷つけられたことをアピールし、わざわざ引用までして強い言葉で何かをモノ申している人。真摯に議論を深めるわけでもなく、ただ人格攻撃でバトルしている政治アカウント。信憑性の怪しいIQテストや精神分析サイト。『貴方はもう頑張らなくていいんだよ』と言ったような、使い方を間違えると悪い結果につながってしまう甘い言葉…
実際、SNS内での情報発信の手法として、広告・宣伝・提起の際はなるべく短文かつ力強いキャッチーな言葉を先頭に置くことがポピュラーとされている。(『AmazonのPrimeセールがヤバすぎる!』など)
これからも受け身のままではそんな情報を、数多身に受ける時代となるだろう。

■ 何かの情報を目に入れる際、どうしても『価値判断』という不随意的な行動が発生する。自分の好みに合わない情報。慎重な判断をすべき情報。内包される感情が激しすぎて、いろんな視点で情報を見なければその人の味方をしにくい情報。欲しい商品があるものの、価格の微妙なスーパーのチラシ。そんな情報を見た時に、時間に大小あれど「う~ん…」と考えてしまう…  そんな時間に きっと誰しも心当たりがあるはず。
なんというか、ここ最近のSNSを見ていると、色んな情報からそんな『価値判断』の時間を少しずつ少しずつ小刻みに引き出されて、時には実際にミュート・ブロックなどの作業に時間を割いて、気が付いたら本質的には何もしてないのに 実際には価値判断を数十回数百回やってしまってうっすら疲れた…みたいな状態に ついついなってしまう。さながら格ゲーのガード削りが積み重なって倒れるように。さながら毒沼のスリップダメージで、命を落としてしまうダークソウルのワンシーンのように。

■ そんな数えきれない価値判断の時間に疲れ果ててしまうと、人間はとうとう耐えかねて、怒りやすくなるのではないだろうか? 今のXのおすすめ欄は特に、誰もかれも怒っているように感じる。
政治について怒る人。我が子の振る舞いについて愚痴る人。インターネットの悪い人について怒る人。怒る人を怒る人。怒る人を怒る人を怒る人…
そんな人たちも、本質的には価値判断の累積に疲れ果てて、一周回って自分の価値観こそで一本独鈷でありたい。そして受け入れてほしい…という感情を ただ言いたくなってしまっただけなのではないだろうか?
なぜならば、玉石混合のライフハックばかりが油断すると滝のように流れてきては 自分の人生は本当に正しく進めているのか?と問いかけられ続ける場所に、時代に、今やいるのだから…

■ 今の時代、本当にやるべきなのは。言語化しにくいけれど『自分に自信を持つ』事のように感じる。自分はこう生きたい。こういう情報が好き。他の人が何をどう言おうと、自分が望むものをできる限り成し遂げてみせるぜ!という意志こそが、かえって情報社会を生きやすくするのかもしれない。
人気者になろうという目的ありきの人がそうなれず、ただ自分の嗜好と生き方を貫いている人こそが、結果として人気者になりやすいように。世の中の言う価値やおすすめに溺れるのではなく、それらの情報から『自分の生きたい形は何なのか?』を見つけ、固めていくことこそが必要なのかもしれない。
デジタルデトックスをするときに何となく、重たい疲れが取れたように感じるのは。そんな連続的な短時間の価値判断から離れ、ゆっくり自分自身を見つめられるからなのだと、よく感じる。

■ そんな事を想うここ数日。とうとう耐えかねて初めて本格的にキーワードミュート・興味関心の明示的な選択を行った。相対的ではあるけれど、とてもタイムラインが過ごしやすくなったと感じる。
それに達成感をなんとなく感じるのは、ただ感情ありきで受け身にそうしたからではなく、『この情報は目にしたい』『この情報は自分に必要ないし、反面教師として使う必要もない』と言ったような、自分の形を再認識できた喜びなのかもしれない。そんな普通の日の、普通の日記。

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