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【日記】"こうはなりたくない"より"こう生きたい"を重ねたい

■ 先月半ばあたりから、人生初めての転職活動を始めた。

■ 最初はおっかなびっくり情報収集だけで始めたペースも少しずつ上げていき、先月末からぼちぼち面接までたどり着く企業も出始めた。ここ2週間ほどは、対面接の作戦を練っては舞台に臨み、落とされてはまた舞台に臨みを繰り返す慌ただしい日々を過ごしている。少し大変ではあるけれど、学びや反省を丸ごと体当たりで持ち帰れる感覚は無理な一社勤めをしてた頃にはとても得られなかった感覚で、なんだかんだ為になる思い。

■ こんな時間をしばらく過ごしていて、自分が生きる人生は『こうはなりたくない』の積み重ねではなく、『こう生きたい』の積み重ねで本来過ごすものなのだな。と、気づきを得るようになってきた。これはその、思考整理を兼ねた日記みたいなお話。


■ 世の中には『こうはなりたくない』という感情をつい呼び起こされてしまう言葉や画像・動画・体験などの情報が。山ほどあふれかえっている。それはSNSやVR世界に限らず、現実でも同じようなものだと思っている。

■ 例えば、ニュースを見ていると『煽り運転で人を怖がらせた容疑者の身勝手な犯行動機』や『コメンテーターの偏った私見がたっぷり入った言説』を見る事がある。Twitterのタイムラインをスルスルとスクロールすると『過激な言葉で何かを攻撃する人』や『それを引用RTし喧嘩を吹っ掛ける人』、『家庭の中の誰かへ向けた独善的な怒りや愚痴』『犯罪行為をしていた人が痛い目に合うどこかの国の監視カメラ映像』なんかを見る事がある。仕事場においても『上司の無自覚なハラスメント』や『仕事の出来ない同僚の中途半端な姿勢』『同調しにくい誰かの愚痴』なんかを見かける事もあるだろう。何の気なしに買い物してるスーパーの中でだって『老人がする店員への理不尽なキレ方』として。そんなものを見る事があるかもしれない。

■ 『こうはなりたくない』のイメージは、『こう生きたい』のイメージよりもずっと言語化しやすい。『こう生きたい』のイメージは、長い時間で試行錯誤しなければそれが正解かどうかわからないが、『こうなりたくない』は答えが明確に定まりやすく、そこに沿えば正解になるインスタントな概念だから。だからこそ、自分が疲弊していたり、目標が分からなくなっていたり、人間として圧の強い誰かの価値観に心酔したり染められていたりすると『こうはなりたくない』のイメージに『こう生きたい』のイメージは簡単に塗りつぶされてしまう。「職場ですすんで残業しない奴なんて、きっと誠意がまるで無いいい加減な奴に決まってる。人間として俺より程度が低い。」みたいな言葉や「俺の中身なんてどうしようもなく空っぽの陰険野郎なのだから、人の言う事だけ聞いて生きていければいいや。」みたいな言葉として。

■ わたしの染まった『こうはなりたくない』は「お酒を煽ってでしか感情表現のできなかった両親のようになりたくない」に始まり「成果の度合いで簡単に相手の評価を変える上司のようになりたくない」へと変遷し、最後の方には「燃え尽きて空っぽになり全てがままならなくなった自分を自覚したくないから、誰かの期待する姿を演じていたい」だったりした。こうした『こうはなりたくない』を思い描き、インスタントな正解をなぞるのはとても簡単だった。それは殆どの場合において、何かを『しない』だけで済むのだから。何かを『する』事と違って、選択がただの1回だけで終わる行動なのだから。

■ 簡単だったけれど、自分が過ごし続ける確たる生き方として。何も積み上がっていかず、連続する道として何も繋がっていかず、形になる価値が何も生まれなかった。

■ 『こうはなりたくない』から生まれる言葉の数々は、生まれた状況がそれぞれ局所的であるために、相関のない散布図の点群を見るように離散的になる。だから『こうはなりたくない』にこだわればこだわるほど、そのイメージが生まれた過去の時間にばかり囚われ続ける。自分の時間を現在に進めてしまうと状況が変わってしまう。嫌った相手が改心しているかもしれない。嫌った場所がより良い物になってるかもしれない。そもそも自分が他の場所に行かざるを得なくなり、取り巻く状況が丸ごと変わってしまうかもしれない。それを知覚すると、自分の生きがいにしていた『こうはなりたくない』が霧散してしまう。だからずっと過去の時間や体験をトレースし続け、同じ痛みを追体験し続け、気が付けば現実の時間や対人関係を回避する癖がついてしまう…のではないかと、自分の体験を振り返って思う。

■ そんな状況から這うように脱して、しっかりと『こう生きたい』のイメージを持つことができたのは。恥ずかしながらつい半年前ぐらいのことだった。だから『こう生きたい』をアピールすべき場である面接の舞台では、きっと相手にそれを見抜かれてしまっているのだと思う。あぁ、こいつは歳のわりに『こうはなりたくない』ばかりで生きていたのではないか?『こう生きたい』の言葉になっている時間が、『こうはなりたくない』で生きていた時間より圧倒的に短いのではないか? 丸ごと状況の違うウチの会社で、本当に言っている通り振舞ってくれるだろうか?と…。

■ 『こう生きたい』イメージの正解が、体当たりで長い時間を生き続けた先にしかないのと同じように。面接の舞台における慣れや、面接官に『こう生きたい』がきちんと伝わってくれるか…。も、結局のところ人に揉まれまくりながら、数をこなさない事には成し得ない。だから、少し疲れたり大変だったり辛かったりすることだけれど、『こうはなりたくない』ばかりで生きていた時間を清算するための必要な時間だと思って、ゆっくりゆったり無理しすぎない範囲で がんばりたいなと思う。そんな感じ。


■ VRChatにおいても、Visitorだった頃を思い出して。同じようにまた人にたくさん揉まれながら、よりいい時間を過ごせるようになってたらいいな…と同じように思い、最近またかつてのように、イベントへ顔を出す頻度を増やし始めた。

■ 他者の価値観を沢山自分の木の中に持ち帰ることで、簡単には崩れない大きな幹を持った人間でありたい。そうして同じように悩む誰かに、こういった導きをあげられる人であれれば、良いなと感じるしそう生きたい。ただただ、そんな思考を忘れないように書き綴る。そんなお話でした。


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