「えんとつ町のプペル」魂震えた考察と弁論術と映画デート
最初に感想を一言でいうと
「ドキドキが止まらん。こんなに心を動かされた映画はいつぶりだ」
でした。
エンディングが終わった瞬間、拍手したくなりました。
ここ最近で見た映画では間違いなく一番魂が震えたし
ルビッチ(主人公)を手に汗握って応援する
いわゆる
”王道のエンターテイメントを体験した”
という時間になったなと感じています。
と同時に、
「見る側のステージやフィルターによって相当評価が分かれるだろうな」
と思いました。
この記事では、僕が感じたこと。
・僕がこの作品を観てなぜ「魂震えた」のか
・この作品を支えるテーマとメタファー
・この作品を最も楽しく鑑賞するスタンスはどんなものなのか
・「王道のエンタメ」体験を抽象化する
・作品から離れて「信者」と叩く人たちの「代替案なき批判」への危惧
・僕が考える、鑑賞後の熱を自分の人生にそのまま乗せる方法
このようなものを言葉にしています。
僕と同じように魂が震えた方には、
「なぜ感動したか」
を共有しこの体験をより深く味わうスパイスに
そうでなかった方には、
「激しく感動した人のフィルター」
を参考程度に知ってもらうようなエッセンスに
まだ観ていない方には、
「こんなスタンスだと気持ちよく味わえるのかな」
なんて想像するお力になれば良いなと(ネタバレあります)。
僕の立場
ちなみに僕は西野さんのオンラインサロン会員ですが、
彼の信者でもなく、彼のアンチでもありません。
サロンのコンテンツは
他にコミットするものがあったので
数か月間一度も見ていませんでした。
サロン自体は、
彼のコミュニティ運営施策や思考を
参考にするためにただ見ていた感じ。
作品を観る前に知識は全く入れずに
作品を観に行きましたのでサロンで
どういうプロモーションがなされていたか
それははよく知りません。
この作品を語るうえで
西野さんの存在はデカすぎるので
まったく度外視して語ることは
もはや不可能だと思いますが
彼のおおよその人柄は知っているけれども
信者とかアンチみたいな
主観的な感情は限りなく少ない
(こういう人多いんじゃないですかね)
そんな感じなので多分かなり
フラットに作品のエンタメ体験を重視するスタンス
ではあったと思います。
そして純粋に作品を観て魂震えました。
もう一度は絶対観に行くと思います。
感想(魂が震えた)
魂が震えた一番の理由はなんといっても
「いま見えているこの景色に、みんなで気付いて、みんなで勇気を出して、新しい時代を皆で迎えよう」
という時代の到来の足音が聞こえたことです。
この作品の一番の強みは
「メッセージの伝え方」
という枠を超えた、圧倒的な
「メッセージの臨場感」
にあると思います。
映画からメッセージが感じられた
とかじゃないです。
生々しい足音が聞こえてきました。
現代の社会に
なんらかのストレスのコンテクストがある人には
響いたんじゃないかと思います。
西野さんの書籍のタイトルをお借りするならば
「革命のファンファーレ」
が鳴っている振動が何度も感じられました。
そして
世界観が一貫していました。
この作品を通してキーワードになる
「ドキドキする」
「新しい時代を皆で迎える」
「信じ抜くことが持つ力を感じる」
を徹底的に作り込まれていました。
そんな体験が確かに劇場にはありました。
「えんとつ町のプペル」のストーリーには
明確に伝えたい事、訴えたい事が刻まれています。
そこに共鳴して
「自分にとっての星を見つけて、魂の限り走り抜けたい」
という自分が本来持っている
ホワイトな部分の原点のようなものを揺り起こされました。
自分の人生をどんなストーリーにするのか
自分の個人的な利益や欲望を超えた
”もっと大きな炎”を、僕は燃やし続けらるのか?
そんな起爆剤になる『星』って
僕にとって何なのか
もっといい世界を
みんなで見るために
「知りたい」
「自分にとっての星を見つけたい」
「それを信じられる自分でいたい」
そういった欲求が呼び起こされ、
映画の中の熱量が自分にも宿った鑑賞となりました。
あとシンプルに
僕個人これまで新しいチャレンジをするときに
前向きになれる言葉をかけてくれる仲間がいたから
今の自分があるなって心から思うので
挑戦する人を笑ったり攻撃しない世の中になってほしい
ということは日頃から強く思っていました。
なので自然にこの作品のムードに身体が入って行きました。
作品のテーマとメタファー
物語の骨となるのは
主人公のルビッチに
・「空気を読め」という同調圧力
・常識と違う異端を取り締まる人間の攻撃性
・既得権益を維持するために真実に気付きそうな人を取り締まる権力者
などの困難があって
・自分の中にある「信じる力」
・家族の愛や親友との「絆」
・ルビッチの思いや世界の仕組みを知る「仲間の協力」
の力で困難を乗り越え、時代を動かすという昇華の過程です。
これは言うまでもなく、
著者の西野さんご自身が受けてきた苦難から
映画公開というゴールまでたどりついた
新たな時代への昇華の物語とぴったり一致します。
作者メッセージ
製作総指揮・原作・脚本西野亮廣
黒い煙で覆われた「えんとつ町」に住む人は、青い空を知りません。輝く星を知りません。見上げたところで何も無いので、町の人達は見上げることもありません。そんな中、煙突掃除屋の少年とゴミ人間だけは、「あの煙の向こう側に何かあるんじゃないか?」と黒い煙の向こうに想いを馳せます。ところが町の人たちは、「あるわけないだろう」と二人を嘲笑い、容赦なく叩きます。
「えんとつ町」は夢を持てば笑われて、行動すれば叩かれる現代社会の縮図で、『えんとつ町のプペル』は僕自身の物語でもあります。
テレビの外に飛び出した日、絵本を描き始めた日、あの日この日。前例の無い挑戦を選ぶ度に、暇を潰すように笑われ、日本中から叩かれ、悔しくて震えた夜は何度もありました。
『えんとつ町のプペル』は、見上げることすら許してもらえなかった自分や、自分と同じような目に遭っている挑戦者の物語を書いたハズだったのですが、今年、世界を襲った100年に1度のウイルスがその意味を大きく変えました。
たくさんの人が涙を流し、たくさんの夢や希望が消えてしまいました。世界は黒い煙で覆われ、まるで「えんとつ町」のよう。誰も見上げることをしません。
公開を来年に延期する話も上がりましたが、どっこい、『えんとつ町のプペル』は黒い煙を突き破り、星空を見つけるまでの希望の物語です。2020年に公開する意味がある作品だと思いました。もはや『えんとつ町のプペル』は一個人の物語ではありません。この作品が、コロナ禍で負けそうになりながら、それでも踏ん張っている全ての人への応援歌になると幸いです。
僕も頑張ります。あなたも頑張って。
(公式サイトより引用)
彼が見えている景色と、彼が伝えたいこと。
味わった痛みと想いが強烈だからこそ、
これだけ強い熱量を帯びた作品に
なったのだと思います。
劇場で観客は
彼の強烈に燃えるミッション
それをヒシヒシと感じざるをえなかった。
みんなで
魔女狩りばっかりやっている
夢を語れば笑われるこの世界
全然ドキドキしないこんな世界
この世界を終わらせに来ました
この映画に関わられたすべての方は
この偉大なミッションの殉教者です。
(信者じゃありませんよ!(笑))
また
作中に様々なメタファーが
ちりばめられていましたが
特にキーとなるのは
「異端審問官」「腐るお金」
の概念になると思います。
異端審問官は
SNS上で行われる
「知らない・自分の常識と違う≒嫌い」な人への
時には命を奪うレベルの強い攻撃のメタファー
と思われますが
コロナ禍に観ると
「自粛警察」
を思い浮かべ皮肉でした。
もう1つは
「腐るお金」のメタファー。
封建主義に代わり長く続いた
資本主義の矛盾点をついた概念です。
この作品には鎖国の終わりを連想させる描写があります。
なので自然に
あの船を見て
ペリーの黒船を想起しました。
黒船来航の先に待っていたのは
長く続いた封建制度の終焉と文明開化
でした。
時代の制度に対する違和感や終焉への希望
新たな時代が当然必要だという暗黙知
このコンテクストがある人とない人で
これらの感じ方が分かれそうです。
これも自粛警察の件と同じく
コロナ禍というタイミングの妙で感じ方が変わります。
国民の現場感と政府に求めるアクションと
かけ離れ続ける政権へのフラストレーション
中央権力との認識のズレの顕在化
これらの状況とリンクします。
現代の社会に感じる憤りが激しい人ほど
これらのメタファーが
「自分の思っている事を表してくれている」
と感じ、新たな時代の足音への希望に
心が向いて感動したのだと思います。
最も満足度の高い鑑賞の仕方を弁論術の観点から
まず当たり前ですが
作品にはそれぞれの色があります。
なので当然、合う合わないがあります。
でもそれだけじゃなくて、
観客側にも作品に合うスタンスというものがあります。
激安牛丼屋さんにドレスコードでデートしに行かないですし、
高級レストランにジャージでパッを食事を済ませにいかないですよね。
映画も
ホラーを観るときと
ヒューマンを観るときでは
まったく席に座った時の
心持ちが違いますよね。
つまり無意識に
”ムードをチューニング”
しています。
では「えんとつ町のプペル」鑑賞は、
観客がどういうムードにチューニングすれば
一番味わいが豊かになるのか。
結論から言うと
「考えるな、感じろ!」です。
あまりにもざっくり
かつ
ありきたりな言葉なので(笑)
アリストテレスの弁論術のフレームで説明しますね。
弁論術とは、めちゃくちゃ超絶ざっくり言うと
”伝え方の奥義”
だと思っていますが
アリストテレスは
この伝え方を構成するのは
3つだと説きました。
エトス(信頼)=伝える側の人柄
パトス(情熱)=聞き手の気分
ロゴス(論理)=内容の正しさ
映画だけでなく、小説やマンガ、演劇など
あらゆるジャンルの作品において
それぞれこの3つの構成要素のパワーバランスが異なりますよね。
コナンやデスノートはロゴスが強いですし、
恋愛モノの少女漫画などはパトスが強いです。
「考えるな、感じろ!」
というのはつまり、
「えんとつ町のプペル」を
パトスの要素を強めにチューニングできると
客席で強烈な感動を味わえる可能性が増す。
ということです
僕は
作品のカラーに合わせて
自分のモードを切り替えられるのは
「リベラルアーツにおける教養」
の一部だと考えています。
例えばめちゃくちゃ伏線が回収されて
どんでん返しされていくタイプのお話だと
「なるほど。そうきたか。おもしろいな。」
といういわゆる”ツウ”っぽい観客のロゴスを満たせます。
プペルにこれをやるなって話です。
(もちろんこれらも含めすべて完璧な作品があれば理想だと思いますよ!)
特に僕が感じたのは
・脇のキャラクターのバックボーン
・重要そうに出て来て結局あんまり回収されない伏線
・唐突な展開
この辺が気になった人は多分
一番重要な「信じ抜くことへの熱量」
を楽しめないのかなと。
作品創作の現場では
作者の素材を
”削ぎ落す”
作業が大変多くなるそうです。
せいぜい3時間程度の時間内で
何を一番盛り込むかは最終的に
何を一番伝えたいかによってバランスが変わってくる
わけです。
「これめちゃくちゃ好き!自分に合う!」
「これ好みじゃない。合わない。嫌い。」
こういった二元論では
せっかく映画を観ても
何も発展していきません。
話す相手と好みが一致しない限り話は終了です。
物事はそんなに単純ではありません。
ある側面から見ればプラスですし、
ある側面から見ればマイナスです。
つまりすべては見る人の視点によります。
映画は完成するまで莫大な予算をかけて各分野の
プロフェッショナルの力が結集される芸術なので
「偉大で雲の上のすごいもの」
みたいなスタンスで映画を観る人もいますが、
元の原作者や演出する監督は人間なので、
その人の思考と対話する鑑賞の方が
多元的で面白い考察もじっくりできます。
居酒屋に飲みに行くときに、
相手の思考に合わせて自分も
その人との対話にふさわしい
言葉選びをしますよね。
作品の色・テーマ・背景
観る側のムード・性格・状況
こういったものを複合的に考えて
感じる心そのものをある程度
自分でコントロールできる教養がある
そんな状態で鑑賞をできると
劇場体験が何十倍も豊かになります。
そして当然この作品は
「王道のエンタメ」
と明確にポジションを取って
観客に届けられている作品ですから
考えずに世界に飛び込んでしまう方が楽しいわけです。
これまで書いたことをまとめると
「時代の制度に対する違和感や終焉への希望」
「新たな時代が当然必要だという暗黙知がある」
というコンテクストを持った人が、
ロゴスを封印しパトススイッチを全開にして
プペルの世界に飛び込むこと
これがいちばん良い鑑賞になると言えると思います。
※西野さんや関係者の人柄(エトス)をどう考えるか
それは個人個人違うのでここでは考えないことにします。
ちなみに僕はビジネスの提案シーンでも
この3つのそれぞれの側面から欠陥がないか
よく吟味して修正してから交渉するようにしています。
王道のエンタメを堪能した満足感
プペルの世界に飛び込んでみると、
テーマパークのようなドキドキ体験
そして感動のストーリー結末に涙する
という時間になりました。
ストーリーを貫いた
プぺルの心優しく純粋で「きれいなハート」
ルビッチの成長物語で見つけた「本当の強さ」
この2人を中心に迎える結末に涙したわけですが
この王道エンタメ体験を支えた要素をばっと思い返してみると
1.えんとつ町の世界観とアニメーションの美しさ
まず何よりも
アニメーションの驚愕のクオリティ!!
息をのむ美しさの絵が次から次へと。
本当に美しかった。
えんとつ町のポテンシャルを
これ以上ないくらい引き出した
圧巻のアニメーションが最高でした。
2.スタンスの取りやすさ
導入で主人公が理不尽なほどひどい目に遭い応援したくなる。
異端審問官の概念が唐突に出てきたことで
世界観が即座に設定され物語に入って行きます。
「みんながなんとなく思っていること(暗黙知)」
の領域を言語化した共通敵の存在ですぐにスタンスが取れました。
3.導入部でのルビッチとプペルの起こし
2人に共通したのは「孤独」。
お互いが違う形で「孤独」のパラダイムを生きていて
お互いの孤独の救世主となるように出会いが起こされたので
「2人にはいい関係でいてほしい」と導入で思えました。
4.そのままテーマパークに出来そうな前半の疾走劇
前半から
間に合わなければ即死レベルのアクションが続き
マリオのような要素のハラハラを入れてみたり
ジェットコースターの展開も含めて
そのままテーマパークの体験型アトラクションに出来そうでした。
5.「世間の反応」なのか、「自分の思う価値観」なのか
作品のカラーに軽すぎず重すぎないレベルで
常にこのテーマについて考えさせられます。
このテーマの部分が薄いと
ただのアクションになってしまうので
王道のエンタメの中にある
ドラマの軸がしっかり設定され
「物語」を楽しむことが出来ました。
最もドラマが落ち込む瞬間である
プペルとルビッチの友情の危機も
アクションにありがちな
「感情を動かすための突拍子もないピンチ」
ではなくて
「世間の反応」なのか、「自分の思う価値観」なのか
という軸から生まれた人間関係の危機でした。
6.「信じる人」と「応援する人」が起こす「奇跡が近づいている予感」
この作品で最も好きだったのはやはりこの描写の熱度でした。
手に汗を握ってルビッチとプペルの作戦を応援しました。
前半に散々「夢を信じる人を応援せずに壊そうとする人」
の理不尽さと残酷さを見せつけられ、悲しいかな「今の日本だ」と。
そんな世界を変える「奇跡の足音」が聞こえてくる。
この王道エンタメのクライマックスを支えたドキドキの足音でした。
7.声の力と残り続けるメロディ
ルビッチを演じた芦田愛菜さんの演技
ルビッチの臆病で繊細なフェーズから
このスケールの大きな物語の後半まで
すべてにおいて作品をけん引する素晴らしい演技。
鑑賞中ずっと彼女への尊敬が止まりませんでした。
そしてエンディングの後
おそらくほとんどの人の耳にずっと残る
ロザリーナさんの人間くさい歌声に乗った
♪ハロハローハロハロウィンプペプップップペル♪(笑)
でもこれって、ずっと余韻が残って、ここまで含めて
エンタメ体験だなと。
代替案なき批評(ただの否定)への危惧
「チャレンジしている人を理由もなく叩く」
人には、そういった行動を取ってしまう理由があります。
何を隠そう僕が昔こういう風に生きていました。
でも、断言します。
こういう人生はマジで変えることができます。
環境と方法論が整えばちゃんと変わります。
でも変わらないとどんどん心が不健康になっていきます。
人生が荒んでいき、望むものが遠ざかっていきます。
というか、心が破たんします。
だからこそ
SNSや各メディアコメント欄で
「作品や映画の為にならないただの叩き」
をしている人を見ると、強い危機感を感じます。
作中にアントニオという
「夢を信じる人を攻撃する人」がいます。
僕が作者の器を感じたのは
あれだけ心無いバッシング
を受けた作者が
攻撃する人をやっつけずに
救済する余地を与えたことでした。
※何度も言いますが僕は信者ではありません(もうしつこいですね(笑))
王道の古典エンタメ作品(ディズニーとか)
ではああいう敵はボコボコにやっつけられる事が多いです。
ディズニー作品の悪役、よく裁きを受けて死にますよね。
一貫して自分と違う状況や考えの人を
攻撃し続けたアントニオの攻撃に
攻撃で返さず、彼が本当に幸せになる
「気付き」と向き合える描写がありました。
救済する余地があったのが心地よかったです。
いや、普通に考えて
人の命を奪っている
社会問題ですよ。
「嫌い」とか「知らない」
みたいな理由で
攻撃するって本当に深刻すぎると。
そんな権利、絶対に誰にもないですからね。
アントニオを罰せずに
彼自身が自分を悔い改めて改心し、夢を応援する側に回る
というのはとても救いがある描写だと思いました。
「自分の不足感を人を攻撃することで満たす」
このことのヤバさについて
思い出したのはこの動画です(13分くらいから)。
13分くらいからの流れで叩いてる人達と同じだなと。
このあと話者が述べていますが叩いている時点で
「自分は下の土俵にいる人間です」
って自己紹介しているようなもんですからね。
もちろん
YouTubeや自分のメディアで堂々と
「作品の純粋なレビュー」で
否定的な意見を言っている人もいます。
こういう人は作品や映画の産業の成長のためにも必要です。
匿名の”叩き”とは性質が全く違います。
”その人の映画観”
というフィルターを通した
根拠のある発信ですからね。
僕が問題だと思うのは
「嫌い」だから「攻撃する」と決めている人たちの
”言葉の暴力とネガティブエネルギーのぶつけ合い”です。
アントニオの本音は
「夢を諦めなければならない人生」
を生きているのが苦しい。
人間って
「自分と向き合って努力する」
より
「努力している人を堂々と否定する」
方がドーパミンが出て手軽に
満足感を得られるんですね。
たとえば受験勉強なんかが分かりやすくて
どうしても行きたい学校が明確にあって
そこに向かって真っすぐ努力出来る人は
頑張っていない人の立場からは輝いて見えます。
誰もがそうやって頑張れるわけじゃない。
「本当は頑張って成長したい自分がいる」
ことは本能的に分かっています。
人間は誰にでも本能的に「成長欲求」があります。
でもそれをうまくコントロールできないと人を叩いてしまいます。
「志望校合格」という一筋の光を
長い期間追いかける努力をするより
「どうせお前は落ちるよ」
「そんなに頑張っちゃって恥ずかしいな」
という方が手軽で楽です。
これの大元をたどると
ダークサイドの承認欲求(人から愛情や尊敬を”奪おう”とする欲求です)
がめぐりめぐってこのような
アウトプットになってしまうことが多い。
自分が満たされていない人は
「一体感、充足、調和」
のようなものが欠乏します。
それを埋める為に
批判する、叩く
こんなことをすると
「自分の方が偉いんだ」
という束の間のプライドと安心感を
守ることが出来るようになります。
批判すると一瞬だけ自分が偉くなれるから。
しかしこのような
”ネガティブなフィルター”は
絶対に自分に返ってきます。
絶対にです。
本当の充足感には
決してたどり着かない。
そんな方法です。
なんとかいますぐ脳を満足させる悲しい方法です。
この問題はけっこう根深くて、
それこそ
心理学に関わる脳の仕組みとか
教育の仕組み理解して原因を知るとか
自己分析や統合のステージとか
インナーチャイルドと承認欲求とか
複雑な問題を解決できるレベルまで
思っているよりも深く自分と統合
出来ないと意外と誰でも
カンタンにこういう状態に
なってしまいます。
これはちゃんと自分を統合していく方法論があります。
このテーマだけでめちゃくちゃ話すことがありますので
これはまた話しますね。
ドキドキした人が確実に人生を変える方法
この映画を観てドキドキしたフィーリングを
そのままあなたの人生に反映させる方法とは
結論から先に言うと
大規模な星空を世界に見せようとしないでいい
どんなに小さくてもいいから隣にいる人に
今見えている
「あなただけの万華鏡」
を出来るだけそのまま見せてあげよう
ということです。
たとえば、
作品を見て、身近な人に
「よかったよ!」
と伝える。
「へえ!どこがよかったの?」
と聞かれても
あらすじしか話せない。
これでは
あなたの万華鏡はシェア出来ません。
人生は動いていきません。
要はアウトプットが
出来る状態になっていないので
せっかく観ても分かち合える感動が
とてつもなく少なくなってしまうんです。
映画を観終わった後
あなたが見ている「万華鏡」は
どんなものでしょうか。
この映画の特性の1つに
「自己啓発性」
があると思います。
要は観た後に
「自分にとっての星を見つけよう!」
「自分も周りの暗い空気に流されずに希望の道を生きていくんだ!」
「行動したい!!」
こういったモチベーションを燃やしてくれる映画だということです。
映画ファンの中には
「いやいや、映画で自己啓発するなよ」
という意見もありますね。
ただ僕個人的には
あらゆるエンタメや芸術は
その時代の社会のコンテクスト
があって存在するので
ストレートにメッセージを伝える
作品があって何が悪いんだ
分かりやすくていいじゃないか
しかもそういう作品たくさんあって
たくさんの人に愛されて
力になっているならもうそれでいいじゃないか
くらいに思う派なので、
こういった色の作品のメッセージは
ダイレクトに受け取って
楽しむことにしています。
まあそれは置いておいて
問題は
めちゃくちゃ多くの人が
「映画で燃えたモチベーションを維持できない!行動につなげられない!」
と感じている事です。
この状態のまま考えてだけいても
何も好転していかないまま
時間だけが過ぎていきます。
だからまず何が分からないのか
それを言語化しなければなりません。
行動の仕方が分からないということは
アウトプットの技術が足りないということ
です。
この2つは本質的には同じ問題が元になっています。
どんな問題かというと
最初から完璧な行動を起こさなければならない
みたいな前提が行動力をめちゃくちゃ抑止している
っていう問題です。
これはなるべく捨てた方が
望んだ結果が早く得られることが
多いです。
僕たち日本人って
「完璧じゃなきゃいけない」
「間違っちゃいけない」
「不正解を人の前で言うことは恥ずかしい」
「正解は決められていて、自分で考えてはいけない」
って教育で刷り込まれてきているんですよね。
テストでマークシートを外すと
減点されませんでしたか?
団体で決められた以外の言動をすると
怒られたり、罰せられたりしませんでしたか?
日本の学校に行っていれば誰もが経験する事象です。
すぐに完ぺきを目指してしまうクセがあります。
行動をする道筋が見えないまま
「自分はちっぽけだ」
と失望するのは
こうした完璧主義が
行動力を奪う癌になっていることがほとんどです。
そんなことより
自分のストーリーが、
えんとつ町の匂いをまとって動き出しているだろうか?
の方が1000倍大事です。
この初速エンジンを上げることが
人生を望み通りに進ませていくために
めちゃくちゃ重要です。
「いきなりめちゃくちゃ完璧な”正解の劇評”を書かなきゃ」
「まずはこの作品の背景や社会の反応を完璧に知ってからアウトプットしないと恥ずかしい」
みたいな思想が今の等身大の成長を邪魔してしまいます。
もちろんこういった
より良い形のアウトプットを
志すことは素晴らしいことですし
だんだん質を上げていくためには
当然必要な思想でもあります。
ただ一番大事なのは
「作品で動かされた心の空気感を、なるべく劇場の客席の熱量のままアウトプットしてしまうこと」
に尽きます。
これをすると
一番高速で行動の質が上がっていきます
一番高速ですべてが上手になっていきます
一番高速で脳が進化していくのを感じてゾーンに入れます
一番自分の充足感が満たされて承認欲求が消えていきます
人生を好転させるのは空気感と感覚です
脳は
全身で世界観に入る
全身で世界観を浴びる
ことによる「感覚」に反応して働き始めます。
完璧にしてからやろうとすると
この「感覚」がだんだん薄れて行ってしまうんです。
一番大事なのは空気感、感覚です。
人間はそれを一生懸命言語化しているだけにすぎません。
ということは
まず感じないことには言語化する材料すらないのです。
だから全力で感じて、全力でその空気感を全身に残して、なるべくその熱量を失わずに表現してみる習慣をつけてしまうんです。
言葉よりももっと感覚に頼ることで
逆説的にあなたの言語能力が育って行きます。
そのうえでこのプペルの映画は
「ドキドキする」
という感覚を突き動かすことに
とても長けている映画です。
せっかくドキドキしたら
今すぐカフェにでも入って
そのドキドキ感覚の正体を
何らかの形で言語化していきます
全身で世界観に入り
作品を鑑賞している最中
あなたの頭の中に
なんらかの世界観が
形成されるはずです。
そうして形成された
あなたの世界観を信頼
してください。
プペルの映画が宇宙の星空だとしたら
あなたの頭にも少なくとも
オリジナルの万華鏡
くらいにものは絶対に産まれているはずです。
それが
あなたの人生を動かす
クリエイティビティの塊
になります。
この塊は、
いろんな世界観に
触れていくことで
どんどん無意識化で大きくなっていきます。
それがあなたの引き出しになりセンスになります。
無意識化にあるこの感覚を
熱があるうちになるべく
顕在意識に持ってくる。
あなたの見えている領域を1ミリでいいから増やすんです。
この繰り返しが間違いなく
人生を最も速く大きく動かしていってくれます。
そして
ルビッチとプぺルの成長物語は
あなたの成長物語にもなります。
これまでのことを3ステップにまとめます。
1.作品の世界にどっぷりつかる
2.作品の思想と対話し自分の思考を言語化する
3.思考で進化した自分の世界観を何らかの形でアウトプットする
これをやるだけで
脳のニューロンが爆発連鎖して
どんどん自頭がよくなり
人に「世界観や匂い」
を伝えるのが上手になります。
楽しませ、気付かせ、引き込み、
味方になってもらう武器になります。
ストーリーを自然に作り出し、
一緒にいる人に新たな景色を見せる能力
が上がっていくのです。
いわゆるリベラルアーツです。
作品は消費せず対話しましょう。
作品とあなたは対等です。
深みを作っているのは間違いなく
感覚が熱いままストーリーテリングできる世界観を持っていること
です。
知識ベースでは人はつまらんのです。
人の感情は熱量と物語と世界観で動きます。
せっかく素晴らしい映画の世界観を観たなら、
あなたの中の世界観と対話させて、
万華鏡を大きくしていかないと勿体ないです。
そのエンジンは
全身で芸術に飛び込むこと
です。
超効果てきめんに
見えている世界が面白くなってきますので
ぜひ実践してみてくださいね。
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