見出し画像

前略 Z

前略。Z氏。Z氏が入院してゐたベッドには別の患者が寝起きしてゐます。前の患者のことを話すのも禁止されてゐるのでZ氏のことを話題にすることも無くなりました。もう僕は別の世界に居て、いつ終はるかも知らない傷療暮しに身を任せてゐます。傷療の検閲から叱られるぎりぎりを狙つて俳句も続けてゐます。先立ての手紙で凛子さんのことを教へて頂き嬉しかつたです。Z氏と彼女が此処に居ない今だから凛子さんとの出会ひはZ氏より僕の方が先だつた頃の思ひ出を書きます。彼女が看護学生だつた時に学生ボランティアで僕の個展の準備を手伝つてくれました。個展の間は他のボランティアが忙しい合間に来て僕が一人ぼつちにならないやうに気使つてくれました。それが縁で、僕が彼女に一方的な片思ひをして演劇部だつた彼女が舞台裏に居た公演にも一輪の薔薇の花を用意して何度も顔を出しました。凛子さんが大学三年のとき学園祭のパロール広場で祭提灯の灯る下、僕は彼女に告白しました。彼女の口の動きは「どうしてさう云ふこと云ふの。」と僕には聞こえたんだけれども怪訝な顏をして僕の方に近付いて来ることも無く反対の方に走つて行つてしまひました。提灯の灯りの下だもの、彼女の背中が見えなくなるのも早くてね。僕は我に返つて深く息をしたのを今も覚えてゐます。僕が書く絵も俳句も凛子さんは疾つくに認めてくれてゐたし彼女の卒業アルバムには似顏絵もプレゼントしました。だから彼女が傷療で働き始めた時には驚きました。看護婦になつた凛子さんが僕に触れる時は必ず彼女の方から看護に必要なケアの時だけでした。僕から彼女に触れることはできなかつたし、それができる体にも僕は恵まれてゐませんでした。手指の先から足の先まで彼女は優しく慰めてくれましたが、それは僕の方から絶対に手が出せないことを知つてゐる条件付きの体だつたからに違ひありません。それがZ氏には献身的な恋愛の形に見えてゐたかも知れません。Z氏は僕に「凛子さんへの恋愛とは呼べない稚拙で幼稚な妄想を持つてゐるに過ぎない」と云ひました。「それがHの創作の力にもなつてゐる」とも云ひました。本当にさう思ひます。Z氏と凛子さんが傷療を離れてから暫く僕は絵の書き方も俳句の作り方も忘れてしまひました。僕の体は木偶のやうに日日の排泄、清拭、食事の介助には適つても、ピノツキオのやうに自由な命は与へられてゐないことを今も思ひ知らされてゐます。Z氏は傷療の窓から見える景色を覚えてゐますか。〈浅い息聞き取れなくて朝の窓〉はZ氏の句でしたね。もう僕には此処から出る体力も気力もありません。《枯芝の動かぬ鳩の足輪かな》は僕の句です。看護と云ふ前提を無くしたら人から触れられたり、僕が触れることも無いと思ひます。看護師は凛子さんとは違ふ女です。男の手です。どうかZ氏の散文で僕を驚かせて欲しい。絶望的なまでに悔しがらせてくれまいか。草草。H拝(1,197)

いいなと思ったら応援しよう!