BREAKFAST!
「朝食をしっかり食べると栄養バランスが取れて健康を維持でき、仕事も勉強も捗ります。」という使い古された味のしない文言が街角や電車の広告、最先端の6インチの画面の中でさえも居座り続けている。
僕はどうしてこんな当たり前の文言が未だにずっと使われ続けているのだろうと疑問に思いながら、トンネルの中を走っている何が見えるでもない窓から見えるトンネルの壁の向こう側を覗こうとした。
鏡のようになった窓には画面に取り込まれてしまっている人達の顔が映っている。
僕は立ったまま居眠りしてしまったようで、ビクッとなって起きた。右を向いても左を向いても先程までいた乗客の姿は見えない。眼前には見た事のない異様な光景が広がっている。ただ茫漠たる闇が視界を埋め尽くしている世界に呆然と立ち尽くしているようだ。正面を見てみると玉座に座ったこの世のものとは思えない程大きなそれがスポットライトに照らされて存在している。その周りには擬人化されたパンや焼鮭、卵やグラノーラなどがニコニコした表情でそれを持て囃している。
それの姿はまさに不健康そのもので、長い間座りっぱなしで食べ続けた結果、肥えに肥えた三段腹のテカテカした裸体を玉座にすっかり埋もれさせている。足は針金のように細く、おそらく立ち上がるという事はないのだろうと推測させた。恐る恐る頭の方を見る。巨体には似つかわしくない小さな頭がスポットライトの光を照り返す程の油に塗れている。顔は弛緩しきっていて、もはや表情など存在せず、溶けているようだ。政治家が港区女子を侍らせ、エロい展開になる事を期待している目にそっくりで、とてつもない不信感を得た。
それの三段腹の上には半熟の目玉焼きとカリカリのベーコンと焦げ目の付いたマフィンを乗せたお皿と牛乳がそれの動きに合わせて脂肪の波に揺れている。よく見るとそれの横には長い列が出来ていて、先程持て囃していた食材達が料理されお皿に乗った状態で今か今かと興奮した表情で自分の順番を待っている。それに食べられる事=極上の幸せという事か。
それは口の中に入ったマフィンを胃に流し込むと、「なにか言いたい事があるようだな?」と脂肪によって喉を締め上げられ苦しそうにも聞こえる甲高い声を出した。その音は聞こえづらいが確実に僕の脳に届く。それが喋る度に三段腹が揺れて牛乳が溢れている。
「貴方様に申し上げたい事があるわけではなくて、過度な広告に違和感を感じているだけです。貴方様の事は私が幼い頃からずっと大事にするようにと親に躾けられております。自意識を持つ前から私の生活様式の1つとなっております。そして、貴方様が無ければ私の1日は始まりもしません。貴方様を神のように崇めて生きてまいりました。」と、思考をすり抜けて言葉が出ていた。自分の発信した言葉に自らが一番驚き、それを隠すように下を向いた。
それは僕の言葉が届かないだろうと不安になる程の大きな咀嚼音を出しながら食事を続けている。目だけでそれの方を見ると、三段腹の上に焼き鮭、漬物、海苔、お味噌汁とご飯が乗っている。どうやら休む事なく食べ続けるみたいだ。
「過度な広告…それは悪い事なのか?余を崇める者が増える事をお前のような者が禁ずるのか?」
先ほどまで弛緩していた目が研ぎたてのナイフのような光を放ち僕の脳髄を突き刺した。僕は恐怖心を抱いた。反射的に両手と額を勢いよく床に付いた。その反動で額に血が滲むのが分かった。
そのままの体勢で「ち、違うんです。貴方様を敬う気持ちを持つという事は当たり前の事なのに、改めて言い続けるのはどうしてなのかな?と少しだけ、埃のような疑問を感じただけなのです。私は貴方様の品位を落とそうとかそんな下賤な考えは1ミリもありません。不快に思わせてしまったのなら誠に申し訳ございません。」考えてもいない事を口走っている。しかし、僕の魂の底の防衛本能がそう言っているのだとしたら、僕はこの目の前の巨体を崇拝しているようなものなのかもしれない。額の血の匂いが鼻の奥をつく。
「1ミリ…1ミリの余を貶めたい思いとはこれよりは厚いよの?それ位には余を穢らわしい存在だと思っておるのだな。」と焼き鮭の皮を箸でつまみあげひらひらとさせている。その余裕のある仕草に自分の存在の小ささを感じる。周りの食材たちは怯えと怒りのこもった表情で僕の事を見ている。メザシ達は主人の一言があれば僕の事を貫くつもりらしい。
僕は額を床により強く擦り付けた。いっそメザシ達に串刺しにされた方がマシだ。
「まぁ良い。皆の者落ち着け。こいつが何を叫ぼうとも誰の耳にも届かんからな。これからも自分の脳で考えるだけ。しかもその考えを人に話そうともしないではないか。周りを見てみろ、現に誰もこいつの事を見ていない。人間共は全員が画面に齧り付いておる。まるで余がフライドチキンに齧り付いているみたいだの。」と言い、実際にフライドチキンに齧り付く。一瞬の静寂が流れる。それが不思議そうな顔をして周りを見回すと、食材たちが大袈裟に笑い始めた。
僕は自分の頭の中にある事は何ひとつ喋れないでいる。血が口の中にも広がる。
無力。
僕はその馬鹿みたいな作り笑いの声によって
なのか、自分の惨めさに耐えきれなくなったからなのか、心の中の何かが弾け飛んだ。
このままではダメだ!このまま額を傷つけ続けたまま残りの人生を生きていけない。それは僕の過去が許さない。
低くうなりながら立ち上がる。傍には額で床の埃を食べ続けている自分の骸がいる。
正面を初めて見据えた時には僕は自宅から最寄りの駅に着いていて、ホームに1人立っていた。
次の電車が駅に停まった。
電車から降りる人々。
みんな僕の事を一瞥して去っていく。画面を見ながら直線で歩いてきた人も、僕の半径1メートルが相対性理論のように歪んでいるかのごとく、僕の周りだけを避けて歩いていく。自分の重力に耐えられなくなった物体は時空を歪めながら落ちていく。止まる事なく落ちていくだけ。
それでも…
僕は額の血を拭い、右足から歩き始めた。