
【コラム】人が人と関わることに条件は必要でしょうか?
「あれができていないのならすべきでない」「こんなこともできないのにすべきでない」と言う人がいます。何かを始める際に「まずその前にこれをすべき」「物事には前提条件がある」と考えることは、一理あるでしょう。足し算ができないまま微分積分を解くのは難しい。足し算、引き算、掛け算、割り算を順に積み上げた先に、微分積分が理解できる。これは理にかなった考え方のように思えます。
この考え方を「人助け」や「社会参画」に当てはめる人たちがいます。「自分のことさえできないのに、他人や社会のことなどもってのほかだ」と。ですが僕は、この考え方は間違っていると思います。
もしもそんな考え方で生きるならば、人は永遠に他者と関わることはできません。完璧な人間だけが他者や社会に関わるべきだとするならば、一体誰が僕に関わってくれるのでしょうか? これは他人の問題ではなく、私たち自身の問題です。人は誰しも不完全だからです。
例えば、親になるに相応しい完璧な人間になってから子育てを始めようとすれば、一生という時間さえ短すぎるでしょう。子どもが欲しいと思うから子どもをつくり、失敗し、学び、喜びや悲しみを経験していく。それでいいのです。それが人間です。人は誰でも、関わりたい時に人に関わっていいにきまっていると、僕は思います。
しかし今、この「人が人と関わること」に条件を付ける価値観が広がっているように思います。 その結果、他人や社会に無関心であることが当たり前の世の中になっていないでしょうか。
自分のことさえままならないけれど、他人のために身体が動く。そんな経験をしたり、見たりしたことがある人もいると思います。詳しくない土地で道を尋ねられ、一生懸命地図を探したり、自宅の片付けができないのに年末の居場所の大掃除を手伝ったり。鬱で苦しんでいるのに不安な誰かの話を聞いていたり、働けずお金もないのに困っている人に募金をしたり。今の時代、そんな行為を「なんて馬鹿なんだ」「自分のことだけやればいいのに」と嘲笑する人がいるかもしれません。ですが、僕は、そんな人たちに何度も何度も救われてきました。
道に迷って困っている時、誰かがふらりと集まってきて、一緒に悩み考えてくれる。その人たちといったら僕以上に道に不慣れで、「ああでもない」「こうでもない」と一生懸命に右往左往している。そんな姿を見ていると、僕はもはや道がわからないことなんて大したことではないような気持ちになってくるんです。本当は正しい道を知りたかったはずなのに、心がじんわりと温まり、道以上の大切なものを得たような気持ちになるのです。
人を “助ける” のは確かな技術や知識などの専門性かもしれません。しかし、人を “救う” のは人そのものだと僕は信じています。だからこそ、こんな当事者団体の活動を続けています。傷のなめ合い、共依存だと批判する人もいますが、僕はそんな人に笑顔で言いたい。「素晴らしいでしょう?」と。傷を見て互いに痛そうな顔をし合い、どうしたらいいのかと頭を抱え、一緒に生きる。解決しない問題もあるかもしれませんが、それ以上に大切なことに気付き、豊かになっていく。
僕は、自分もそんなふうなことができる人になりたいと心底思います。道を知らなくても、困っている人がいたら声をかけたい。おろおろと一緒に考えたい。自分のことさえままならないのに、他人のために一生懸命になれる人のことを心から尊敬します。そんな人たちが社会の主人公になっていく時代が来ることを願っています。
(泉)