
炎上案件の歩き方
第1章:プロジェクト炎上の幕開け
「和也さん、また追加要望が来ました」
プロジェクトルームに重苦しい空気が流れる。
時計は午後9時を回っていた。周囲を見渡せば、目の下にクマを作ったメンバーたちが、無言でキーボードを叩いている。
和也は、30代半ばのリーダークラスのシステムエンジニアだ。
大手SIerに勤めて10年以上、炎上案件は何度も経験してきたが、今回ばかりは規模が違った。
「どんな内容?」
「えっと……スケジュールはそのままで、レポート機能を10種類追加したいそうです」
「は?」
耳を疑った。
今だって納期はギリギリ。開発は遅れ、テストも終わっていない。
そんな状況で、10種類のレポート機能追加?
──ふざけんなよ。
心の中で毒づくが、口には出せない。
リーダーが荒れると、チームが崩壊するのは知っていた。
「とりあえず、明日、先方と調整する」
そう告げると、またキーボードに向き合う。
が、指が止まった。
なんで俺ばっか、こんな目にあうんだろう。
プロジェクトが始まったのは半年前。
誰もが「これはヤバい」と気づいていた。
要件はあいまいで、関係者は多く、誰も責任を取りたがらない。
言いたいことだけ言って、あとはよろしく。
そんな案件だった。
ただ、和也は断れなかった。
「君ならやれるだろう」
上司からそう言われて、NOと言える空気じゃなかった。
──まあ、どうにかなるか。
そんな甘い考えは、1ヶ月で消えた。
◆
「今日はもう終わろうか」
深夜0時。
さすがに限界を迎え、和也は声をかける。
「すみません、先に失礼します」
「お疲れ様です」
次々と席を立つメンバーたち。
彼らもまた、和也と同じ30代。
家族がいる者もいれば、転職を考えている者もいる。
最近は、みんなの顔から笑顔が消えていた。
和也は、帰り際に自分のスマホを見た。
──妻からのLINE。
「今日も遅いんだね。体に気をつけて」
画面を閉じ、深いため息をつく。
「……くそ」
本当に、このままでいいのか。
プロジェクトは泥沼。
クライアントは無茶を言い、現場は疲弊。
このまま進めば、間違いなく失敗する。
だが、逃げるわけにはいかない。
俺がやるしかない。やるしか……。
◆
翌日、和也はクライアント先の会議室にいた。
相手は5人。
みなスーツ姿で、腕を組んでいる。
「で、追加のレポート機能ですが、納期は動かせませんよ」
開口一番、そう言われた。
和也は笑顔を作った。
こういう時こそ冷静に。
「お気持ちはわかります。ただ、現状を踏まえると、全てを盛り込むのは難しいと思っています」
「難しいじゃ困るんですよ。やるのがプロでしょ?」
──うわ、きたよ。
内心はイラッとしたが、表情は変えない。
「もちろんプロとして、やれる限りのことはやります。ただ、そのために少しご相談させてください」
そこから、約2時間。
和也は丁寧に、そして粘り強く説明を続けた。
・現状の進捗
・追加要望の影響
・品質へのリスク
「このままだと、システムが動かないものになってしまいます。御社にとっても、それは望ましくないかと」
資料を見せながら、静かに語る。
途中、何度も遮られた。
「そんなの関係ない」「それが君たちの仕事でしょ」
でも、負けなかった。
だって、守りたいから。
このプロジェクトも、チームも、自分の誇りも。
気がつけば、会議室の空気が少しだけ変わっていた。
「……じゃあ、必要な機能だけに絞る提案をしてくれる?」
その言葉を聞いた瞬間、和也は心の中でガッツポーズをした。
「ありがとうございます。すぐにご提案します」
勝負は、これからだった。
第2章:絶望の中で見えた光
プロジェクトルームに戻ると、和也はすぐにメンバーを集めた。
「みんな、ちょっといい?」
夜の7時。
すでに顔が疲れ切った仲間たちは、無言で席を立ち、集まってくる。
「クライアントと交渉してきた。追加要望は……一部に絞ってもらえることになった」
「……ほんとに?」
一番に声を上げたのは、若手の田村だった。
最近はミスが続き、かなり落ち込んでいた。
「ああ。ただ、その代わり、俺たちからちゃんと提案を出すことになった。
本当に必要な機能だけを整理して、スケジュールを立て直す」
「……やっと、前に進めるんですね」
隣でぼそりと呟いたのは、サブリーダーの佐伯。
彼も同じ30代。
この数週間、ずっと険しい顔をしていた。
「うん。だから、ここが正念場だ。
このままじゃ終われない。全員で乗り越えよう。」
静かだった室内に、少しだけ力強さが戻る。
◆
そこからの数日間は、怒涛の日々だった。
「この機能、本当に使うのかな?」
「いや、たぶん年に1回くらいしか動かさないんじゃないですか?」
「じゃあ、それは後回しにしよう」
和也はメンバーたちと一緒に、機能一つひとつを精査していった。
要望をそのまま受け入れるんじゃなくて、価値を考える。
それがプロの仕事だ、と改めて思った。
「あのさ、田村。昨日の資料、よかったよ」
「え、ほんとですか?」
「うん。おかげで話がスムーズに進んだ。ありがとう」
「……やった」
久しぶりに見た田村の笑顔に、和也はほっとした。
◆
そして迎えた再提案の日。
和也はクライアント先で、緊張しながらも説明を始めた。
「今回、機能を整理し、本当に必要なものだけに絞りました。
その分、品質を上げて、納期を守ります」
資料には、優先度ごとに並んだ機能一覧。
無理のないスケジュール。
「……ふむ。確かに、この方が現実的かもしれないな」
クライアントの担当部長がうなずいた。
「分かりました。これで進めてください」
その瞬間、肩の力が一気に抜けた。
──やっと、道が見えた。
長かった。
でも、諦めずに交渉してよかった。
◆
「お疲れ様でした!」
会社に戻ると、佐伯が声をかけてきた。
「これで、少しは光が見えましたね」
「うん。ここからが本番だけどな」
「まあ、でも……久々に、楽しくなってきました」
「俺もだよ」
ほんの少しだけ、みんなの顔に笑顔が戻っていた。
そして和也は心に決めた。
絶対に、このメンバーでやり切る。
それが俺の役目だ。
次は、地獄のリカバリー作業。
でも、もう逃げる気はなかった。
──さあ、行こう。
第3章:仲間とともに立て直す
「よし、じゃあ今日から本格的に巻き返していくぞ!」
再提案が通った翌日。
和也は朝一番に声を上げた。
メンバーたちも、それぞれ気合が入っている。
“これでやっと前に進める”
そんな空気が、少しずつチームに広がっていた。
だが──。
「すみません、動作が遅くなってて……」
「え? また不具合?」
「はい、昨日直したはずなのに、別のところで影響が出てるみたいで……」
すぐに楽にはならない。
遅れていた開発は、想像以上にガタガタだった。
バグは次々に出て、検証環境も不安定。
メンバーは朝から晩まで、ほとんど座りっぱなしでPCと格闘する日々が続いた。
そんなある夜、和也はふと気づいた。
「あれ、田村……まだ帰ってないのか」
時計は23時を回っていた。
「……すみません、もう少しだけ」
田村は資料作りをしていた。
自分がミスを連発してしまったせいで、遅れた分を取り戻そうとしていたのだろう。
和也は、そっと声をかけた。
「今日はもう帰れ。体壊したら意味ないぞ」
「でも……」
「このプロジェクトは、誰か1人が頑張るもんじゃない。
全員でやるから意味があるんだ。
だから、無理すんな。」
田村は、少し驚いた顔をして、でも最後は小さくうなずいた。
「……はい、わかりました」
◆
そこから、和也は意識的にチームの雰囲気作りに力を入れた。
・どんな小さな成功でも、ちゃんと褒める
・困っている人がいたら、必ずフォローを呼びかける
・笑える雑談も大事にする
「やっぱりさ、コンビニのコーヒーはアイス派だよな?」
「いや、ホット派です」
「田村、お前それは間違ってるわ」
「どうでもよすぎません?」
そんなやりとりが、深夜の疲れた空気を少しだけ和らげてくれた。
◆
そして迎えた金曜日の夜。
「やった……通った……」
佐伯が静かに言った。
「え?」
「テスト、一発合格」
それを聞いた瞬間、全員の手が止まった。
「マジで?」
「すげぇ!」
「やっと、やっとだ……」
「みんな、お疲れ様。
やればできるじゃないか。」
和也は、思わず笑っていた。
本当は、まだ課題は山積みだ。
納品まで、あと少し。
気を抜くわけにはいかない。
でも、この小さな成功は、確かにみんなの心を支えてくれる。
「……俺たち、まだやれるよな」
「はい!」
その返事が、あの頃のどんよりしたプロジェクトルームを、少しだけ明るくした。
◆
帰り道。
和也は夜風にあたりながら、ふと思った。
──最初は、正直逃げたかった。
もう無理だって、投げ出したくて。
でも、あの時、踏ん張ってよかった。
このチームで、絶対にやり切る。
今は、そう胸を張って言える自分がいる。
そして、少しだけスマホを開いて、妻にLINEを送った。
「やっと、少し光が見えてきたよ」
すぐに返事が来た。
「よかったね。無理しすぎないように」
夜空を見上げて、和也は小さく笑った。
──あと少し、頑張るよ。
第4章:プロジェクト成功、そして涙
納品当日。
朝から降っていた小雨が、午後には止んでいた。
少し肌寒い空気の中、和也はクライアント先のビルへと向かう。
半年以上続いたこのプロジェクトも、いよいよ終わりを迎える。
……長かった。
そして、苦しかった。
「でも、ここまで来れた。
チーム全員で。」
最終チェックは完璧。
あとは正式に納品して、問題なく動くことを確認するだけだ。
「和也さん、こっちはOKです」
現場にいる佐伯が、無線で伝えてくる。
田村の声も続く。
「レポート機能、全部確認しました。大丈夫です!」
「ありがとう。引き続きよろしく」
静かに深呼吸して、クライアントの会議室に入る。
目の前には、これまで散々無茶を言ってきた担当者たち。
「……では、納品確認を始めましょう」
淡々と進むチェックリスト。
あれだけ山のようにあった要望。
それを、必要な機能に絞り込んで、磨き上げたシステム。
画面が動くたび、心臓がドクドク鳴った。
──頼む、何事も起きないでくれ。
「……うん、問題ないですね」
そう言われた瞬間、背中から力が抜けた。
「これで完了ですね」
「はい。本日をもって、正式に納品となります」
笑顔で頭を下げる。
そして、担当部長が口を開いた。
「正直、最初はどうなるかと思ったけど……
いいシステムになりました。ありがとう」
その言葉が、やけに胸に響いた。
「いえ……こちらこそ、ありがとうございました」
心からの言葉だった。
◆
夜。
プロジェクトルームで、簡単な打ち上げを開いた。
コンビニで買ったお菓子と、ノンアルコールの飲み物。
高級な料理なんていらなかった。
このメンバーで、この時間を過ごせるだけで十分だった。
「みんな、本当にお疲れ様でした」
和也は、立ち上がって話し始める。
「途中、どうなるかと思ったし、俺も何度か心が折れかけたけど……
最後までやり切れたのは、間違いなくみんなのおかげです。
田村。お前がまとめてくれた資料、最高だった。
佐伯。いつもフォローありがとう。
そして、ここにいる全員がいなかったら、このプロジェクトは絶対に終わってなかった。
俺、リーダーとしてはまだまだだったけど……
こんな最高のチームで仕事できて、幸せでした」
気づけば、少し声が震えていた。
横を見ると、佐伯が目をこすっている。
「あれ、花粉が……」
「いや、まだ冬だし」
「ほんと、いいプロジェクトでしたね」
田村も、静かにうなずいていた。
「俺、こういう仕事がしたくて、この業界に入ったんだって、思い出せました。」
和也は、その言葉に胸が熱くなった。
「……そうだな。俺も、そうだよ」
◆
帰り道。
夜空には、星が少しだけ見えていた。
和也はスマホを取り出して、妻にメッセージを送る。
「無事に終わったよ。ありがとう」
すぐに返事が届く。
「お疲れさま。ゆっくり休んでね」
小さく笑って、スマホをしまう。
そして、前を向いた。
──また、次のプロジェクトが始まる。
きっと、これからも無茶な要望や、辛い日々が待っているだろう。
でも、もう怖くなかった。
仲間がいれば、乗り越えられる。
そう、信じられる自分がいる。
「さあ、帰ろう」
そう呟いて、和也は静かに歩き出した。