
【IT小説】年収200万円アップの裏技 〜それでも幸せじゃなかった〜
第1章:転職と「裏技」と僕の決心
プロジェクト終わりのモヤモヤ
「――あー、やっと終わったぁ……」
タロウは夜11時を回ったオフィスで、大きく背伸びをした。
ここ数か月、タロウはフロントエンドエンジニアとして、ある大規模サイトのリニューアル案件に追われていた。JavaScript(Webブラウザ上で動くプログラミング言語)やTypeScript(JavaScriptを拡張した言語)を使いこなし、UIのデザインをリサと一緒に整える毎日。時にはバックエンドのAPIが思ったとおりに動かず、REST APIやGraphQLなどの資料をひっかき回して原因を探し続けることもあった。
「これでデバッグ終わり……のはず」
画面の動作を最終確認しながら、タロウはぼんやりとモニターを見つめる。
プロジェクトの終盤はいつも忙しい。バグが出ては修正し、テスト環境で動作確認しては再び修正。そしてようやくリリースという流れだ。
「ふぅ……」
ため息にも似た息を吐きながら、手元の紙コップコーヒーをすすろうとしたが、そこにはもう冷めきったコーヒーすら残っていなかった。
最近は徹夜こそしなくなったが、帰宅はいつも夜遅く、プライベートの時間なんてほとんど取れていない。筋トレをして健康をキープしようと思っていたのに、ジムに行くこともままならない。休日は疲れて寝て過ごすことが多い。
「このままでいいのかな……」
タロウはふと疑問を抱く。地方のSIerから転職して給料は上がったが、それでも**“もっと稼ぎたい”とか、“もっと面白い仕事がしたい”**という欲求はぬぐえない。そして最近、社内チャットやSNSを眺めていると、「年収200万円アップの裏技」などという怪しげなフレーズが目に飛び込んでくることが増えてきた。
「怪しい広告だろうけど……ほんとにそんなことがあるのかな」
タロウは半信半疑だ。だが、実際に周囲を見渡すと、エンジニア業界には転職を繰り返して年収アップを続けている人や、副業でフリーランス案件を掛け持ちして収入を伸ばしている人もいる。佐藤先輩みたいに。
“裏技”の正体
翌日、タロウがやや眠たい目をこすりながら出社すると、隣のデスクには佐藤ケンジ先輩がドリンク片手にソファにどっかりと腰を下ろしていた。スマホの画面を眺めながら「ニヤニヤ」している。
「先輩、なんかいいことあったんですか?」
「あー、タロウくん、これ見てよ。年収200万円アップだって。うさん臭いと思うだろ?」
そう言いながら佐藤先輩が見せてきたスマホの画面には、いかにも怪しいバナーがデカデカと表示されていた。だけど、よくよく読んでみると、そこには「高単価案件にすぐに参画できる方法」「業務委託エージェントを活用した効率的な収入アップの実例」など、もっともらしいキーワードが並んでいる。
「いや、なんか普通に興味湧いちゃってさ。俺、転職でだいぶ年収上がったけど、それでもまだまだ欲しいし。」
佐藤先輩のキラキラした目を見て、タロウは思わず笑ってしまう。先輩はあれだけ高給取りなのに、まだ上を狙うのか。半ば呆れつつ、タロウ自身も気になって仕方がない。
「その裏技って、どんなこと書いてあるんですか?」
「簡単に言うと、フリーランスエンジニア向けのエージェントサービスを使って、高単価案件を受注するのが一番手っ取り早いって話らしい。確かにフリーランスなら時給換算で1万とか2万もあり得るしね。だいたいSES(システムエンジニアリングサービス)とか受託開発とか、いろんな働き方があるわけだが、案件の選び方次第で爆上がりらしいよ。」
SESとは、エンジニアを派遣して開発や運用を支援するビジネスモデル。受託開発は、特定のプロジェクトを外部企業として請け負う形だ。フリーランスエンジニア向けエージェントサービスというのは、そういった働き方の選択肢を複数提示してくれたり、エンジニアの条件に合った案件を紹介してくれるサービスのこと。
「でもフリーランスって、安定しないイメージあるけど……」
「まあ、そうなんだけど、実績さえあればあっという間に月100万稼ぐ人とかもいるのは事実だからな。」
その言葉にタロウの胸は少しざわついた。会社勤めのままでも徐々に給与が上がる可能性はあるが、確かにフリーランスで一発当てれば**“年収200万円アップ”**なんて夢でもないかもしれない。
心の葛藤
プロジェクトが落ち着く頃になると、タロウは気づけばその「裏技」について検索しまくっていた。関連ブログを読み漁り、YouTubeでもフリーランスエンジニアの生活を発信している人の動画を繰り返し視聴し、コメント欄の口コミにも目を通した。
すると、フリーランスになった人の多くは「自分の力を試したい」「もっと自由に働きたい」というポジティブな理由で独立している一方、「将来の不安が増えた」「とにかく孤独」「自己管理が大変」といったネガティブな感想もあった。
タロウはそれを読むたびに悩む。今の会社は福利厚生や社会保険もちゃんとしているし、業務範囲もそこそこ自由。リサのような気の合う同僚もいる。何より、ようやく職場の環境に慣れてきたところだ。それを捨ててまで自由を求めるべきなのか?
「でも、今の自分は幸せなんだろうか……?」
そう思い始めると、タロウは胸の中に大きな穴が開いているような気がしてくる。仕事自体は嫌いじゃないけれど、物足りない。このまま数年を過ごして気づいたら年を取っている自分を想像すると、なんだか気が遠くなった。
ミカとの再会
そんなある日、タロウのスマホが振動した。画面を見ると、同期の高橋ミカからのメッセージだった。
「久しぶりー!最近どう?今度ランチ行かない?」
タロウは思わず顔がほころぶ。地方のSIerで同期入社し、何度も徹夜の作業を乗り越えた仲。近況を知らせ合おうと言いながら、お互い忙しくてなかなか会えていなかった。すぐにOKを返事し、数日後、都心のカフェで再会が実現した。
「タロウ、めっちゃ痩せた?頬がこけてるよ!」
「やっぱ分かる?最近忙しくてさ。そっちはどう?」
ミカは昔と変わらず元気いっぱいで、むしろ前よりイキイキしている感じだ。話を聞くと、クラウドの資格を何個も取って、今度は社内で**AWS(Amazon Web Services:クラウドサービス)**の導入プロジェクトを任されたらしい。
「もう**IAM(Identity and Access Management)とかVPC(Virtual Private Cloud)**とか覚えること多すぎて、最初は頭パンクしそうだったけど、最近はようやく慣れてきたかな。楽しいよ!」
彼女の目は輝いている。そしてミカは隣の席に顔を寄せて小声で言った。
「実は私、このままうちの会社でクラウド部門立ち上げようと思ってて。いずれは自分でチーム持ちたいんだよね。タロウは今どんな感じ?前にWeb系行ってみたいって言ってたけど、そっちに転職したんだよね?」
タロウはミカが興味津々の様子を見て、今の職場や業務内容、そして心に引っかかっているモヤモヤを正直に話した。転職は成功だったけれど、まだ何か物足りなさを感じること。さらには「年収200万円アップの裏技」という甘い言葉が脳裏をちらついていることも。
「ふーん。でも、タロウってお金が欲しいというより、なんか新しい挑戦がしたいんじゃない?前からそうだったじゃん。」
「まあ、そうかもね。たしかに稼ぎたい気持ちもあるけど、ただ金を増やすだけってどうなんだろう……って思ったりしてさ。」
ミカは考え込むように顎に手を当て、それから満面の笑みを浮かべた。
「じゃあさ、一度やってみればいいんじゃない?合わなかったら戻ればいいんだし。世界中にはいろんな働き方があるよ。」
タロウはその言葉に少し救われた気がした。ミカは昔から悩むよりやってみる派の人間だ。でも、その前向きさに何度も助けられてきたのも事実。タロウはありがとうと笑って答える。
決断と一歩
その日の夜、タロウは自宅に戻ってから大量の資料やブログ記事を再度読み直し、フリーランス向けのエージェントサイトでいくつか無料登録をしてみた。別に今すぐに独立するわけじゃないが、自分の市場価値を客観的に知るためにはいい手段だろう。
すると数日後、早速エージェントの担当者から連絡があり、「タロウさんのスキルなら案件がありますよ」といくつか提案された。ReactやVue.jsといったフロントエンドのフレームワークを使った開発案件で、フルリモート可能なものも多いという。報酬例を見てみると、時給換算でこれまでの1.5倍以上のものがザラにあった。
「こんな世界、ほんとにあるんだ……」
タロウは衝撃を受けつつ、同時に心がざわつく。もしうまくいけば、本当に**“年収200万円アップ”**は夢ではないかもしれない。だけど、リスクもあるし、一度独立したらもう会社には戻れないかもしれない。
夜更けの自宅リビングで、タロウはコーヒーを片手に考え続けた。頭の中には佐藤先輩の楽しげな声と、ミカの「一度やってみれば?」という言葉がぐるぐる回っている。
「どうせやるなら、若いうちにやってみるべきかな……」
そう呟きながら、パソコンの画面には応募フォームが開いたままだ。高単価の案件を紹介してくれるというボタンが、どこか眩しく見える。
いや、それだけじゃない。タロウは自分が何を本当に求めているのかをじっくり考えた。お金だけじゃなく、もっと面白いプロジェクトに挑戦したい、海外のクライアントとも仕事してみたい、そういう欲があるのを改めて自覚する。
「これはチャンスかもしれない。」
タロウはキーボードを叩き、応募フォームに必要事項を入力し始めた。自分のスキルセット、経験プロジェクト、使えるフレームワーク、得意分野……書き出してみると、案外自分もいろんなことをやってきたじゃないか。
最後に送信ボタンを押して一息つくと、不思議とスッキリした気持ちになった。あとはエージェントと詳しく話を進めて、具体的な案件を見極めるだけ。もちろん会社への相談もしなきゃいけないし、フリーランスになるには経理や保険、税金の手続きもある。でも、その不安すら今は心地よく感じられる。
タロウは少し疲れた目を閉じる。頭の中には、新しい自分への期待が広がっていた。まだ何も決まっていないのに、心はまるで冒険の始まりのように高鳴っている。
「よし……まずはここから、動いてみよう。」
そう心に決めると、タロウはパソコンを閉じてベッドに潜り込んだ。明日はプロジェクトの完了報告会があるし、寝不足で倒れでもしたら大変だ。少し先に進むだけで、景色が違って見える。そんな気分を胸に抱きながら、タロウはゆっくりとまぶたを閉じるのだった。
2章:裏技への挑戦と副作用
フリーランスへの第一歩
「あれ、やっぱりやめたほうがよかったかな……?」
タロウは自宅のデスクに座りながら、ふとそんな弱気なつぶやきを漏らした。先日、ついにフリーランスエンジニア向けエージェントサービスに登録し、いくつかの案件の詳細を取り寄せてみたのだが、その案件一覧を見れば見るほど、期待と不安の板挟みに遭っている自分に気づく。
まず魅力的なのは報酬だ。これまで勤めてきた企業の月給と比べても明らかに高い数字が並んでいる。中には週3日リモートワークでフルタイム相当の給与が稼げる案件もあるし、ReactやVue.jsといったフロントエンドのフレームワークに特化した案件も数多く揃っている。
「時給1万円って……ほんとにそんな世界があるのか?」
タロウは半ば呆れながらも、思わずニヤけてしまう。もし本当にそんな高単価の案件を継続的に受注できるのなら、確かに年収200万円アップどころか、それ以上も夢じゃない。けれど、よくよく条件を読むと、稼働時間は1日8時間以上で週5日以上とか、短納期でかなりの稼働を求められる、いわゆる**“デスマーチ”**が懸念されるプロジェクトも少なくない。
デスマーチとは、本来のスケジュールやリソースでは不可能に近い量の作業を、無理やり突貫で進めるプロジェクトの俗称。エンジニアに過度な残業や徹夜を強いられることが多く、心身を蝕む要因になりがち。
「これ、体力持つかな……」
タロウは不安を感じながらも、自分が生き生きと働く未来を想像せずにはいられない。そもそも彼が転職からさらに新しい道を模索しているのは、もっと面白い仕事をしたいからであり、スキルを伸ばして成長したいからでもある。もちろんお金は大切だが、それだけが理由ではない。
「でもやっぱり……給料って正直欲しいよなあ」
自分の中の矛盾に、思わず苦笑い。お金も欲しい、やりがいも欲しい。でもそれでプライベートがボロボロになるのは嫌だ。人間って贅沢な生き物だなと、タロウは改めて痛感する。
案件との格闘
案件をさらに精査していくと、どうにも自分の経験とは違うバックエンド寄りの案件や、AWS Lambda(サーバーレスアプリケーションを構築するサービス)をフルに使いこなすことが前提の案件など、現状のタロウのスキルセットではなかなか厳しそうなものもある。エージェントからは「この機会にバックエンドもやってみませんか?」という提案をもらうが、それも悪くない選択だ。ただ未経験分野にいきなり飛び込むのは、リスクも大きい。
「学習コストが高いから、その分きついとは思うんですけどね……。どうせならフロントエンドを極めてからバックエンドに挑戦したほうがいいのかな」
しかし一方で、ゼロから新しい技術を学ぶワクワク感も捨てがたい。タロウは自分が好奇心旺盛なことを自覚しているので、これを機にスキルの幅を広げるのもありかもしれないと迷い始める。
佐藤先輩と酒場の夜
そんなある日、タロウは佐藤ケンジ先輩に誘われて会社近くの居酒屋へ足を運んだ。カウンター席に落ち着くと、すぐにビールのジョッキをカチンと合わせる。
「おつかれー、最近どうよ?例の裏技とか進んでるの?」
佐藤先輩は上機嫌だ。どうやら先輩自身も、別のプロジェクトを任されたらしく、そちらがうまく軌道に乗っているらしい。
「実はフリーランスのエージェントに登録してみたんですよ。それで、いくつか案件も見てるんですけど……意外と悩みますね。高単価案件ほど、キツいことも多いのかなと思って」
「そりゃそうだろ。簡単に大金を稼げる案件なんてそうそうないさ。顧客折衝やら要件定義、納期管理なんかも全部自分でやるわけだからな。会社ってのはある意味、面倒なことをやってくれる盾でもあるんだ」
顧客折衝:クライアントとの仕様や料金、納期などを交渉・調整する作業。
要件定義:システムが備えるべき機能や仕様を明確にし、プロジェクトの方向性を決める工程。
タロウはその言葉にうなずきながら、ビールを一気にあおる。確かに、今までは会社のプロジェクトマネージャーや上司がクライアントとのやり取りをやってくれていた。フリーになると、自分で仕事を管理しなければならない。細かい契約書のチェックや請求書の発行、確定申告なども待っている。
「先輩はその辺、どうしてるんですか?独立したときって」
「俺? 俺は税理士雇ったよ。毎月定額払えば、面倒な申告とか帳簿管理とかやってくれるからさ。でも最初は金もそんなになかったから、自分でやったんだけど、あれは精神削られるな。BlueReturn(青色申告)とか複式簿記とか、聞き慣れない言葉だらけで」
面倒そうに笑い飛ばす先輩の姿を見ていると、フリーランスも決して楽ではないという現実がひしひしと伝わってくる。ただ、タロウの胸にはそれ以上に「先輩のように自由に働きながら、そこそこの収入も得られるのかもしれない」という希望も湧いていた。
「まあ、どの道挑戦してみなきゃ分からないことだらけだよ。悩むのも大事だけど、まず一歩踏み出してみると意外と景色が変わる。失敗したらまた会社に戻ればいいじゃん?」
佐藤先輩はそう言って、タロウの背中をバシッと叩く。昔から豪快な先輩だが、そのぶん失敗も多いし、しかし何だかんだで成長してきた人でもある。だからこそタロウも尊敬しているし、その言葉には不思議な説得力があった。
高橋ミカの応援メッセージ
帰宅してスマホを確認すると、同期のミカからLINEが入っていた。
「タロウ、案件どう?上手くいきそう?私はAWSの社内プロジェクト順調だよー。いつか一緒に仕事したいね!」
まるでタイミングを見計らったかのような連絡に、タロウは思わず笑みを浮かべる。SIerに残ってクラウドエンジニアとしての道を突き進んでいるミカは、どこか自分と対照的に感じられる。彼女は企業の中でキャリアを積みながらも、新しい技術に貪欲で、常に前向きだ。
「一緒に仕事か……それも面白そうだな」
タロウはそう思いながら、フリーランスとして案件を探す自分の姿と、今の会社での勤務を続ける自分、あるいはミカのいるSIerに再入社してクラウド専門でスキルを伸ばす自分――そんな複数の未来像を頭の中で思い描く。どの道を選んでも幸せは掴めるかもしれないし、逆にどの道を選んでも苦労はあるのかもしれない。
それでも、タロウの胸にある**“ワクワク”**は抑えられなかった。高い山を見ると、自然と登りたくなる。それが彼の性格だと、自分でもわかっている。
リサとの衝突
翌週、タロウが担当するプロジェクトの打ち合わせ中、デザイナー兼フロントエンドエンジニアでもあるリサと意見が対立した。リサはUI/UX面(ユーザーが使いやすいデザインや操作性)の改善を重視して、Atomic Design(UIを小さなコンポーネント単位で再利用可能に設計する方法論)を徹底的に導入しようと提案。一方、タロウは納期やコストを考慮しながら、ある程度の妥協も必要だと思っていた。
Atomic Design:分子・原子のようにUIパーツを最小単位に分解して再利用性を高めるデザイン設計手法。大規模開発での保守性が高まるメリットがある。
「リサ、確かにAtomic Designの考え方は素晴らしいけど、全部やり切ると時間かかりすぎない?今のスケジュールじゃ厳しいと思うんだけど」
「うん、わかるけど、ここで妥協しちゃうと後からまた手戻りにならない?最初にしっかりデザインシステムを作っておけば、あとで別のページや機能を追加するときに楽になると思うの」
リサの言い分ももっともだが、タロウはクライアントの厳しい締め切りを思い出して心がざわつく。会社のプロジェクトと違って、フリーになったらこういう調整も自分で引き受けることになるだろう。そう考えると気が重いような、逆に「自分でコントロールできるなら楽しいかも」という矛盾した気持ちが沸き上がる。
結局、その場ではリサがもう少し軽量化したデザインガイドラインを提案して納得の落としどころを見つけたが、タロウは打ち合わせ後にリサからぽつりと声をかけられた。
「タロウくん、最近なんか落ち着かない顔してる。大丈夫?私でよければ話聞くよ?」
そのやさしい言葉に、タロウは少し胸が痛む。リサは仲間であり良きパートナーでもあるのに、自分は勝手にフリーになるかもという想像をしていて、彼女を置き去りにするかもしれない。そんな後ろめたさを感じながらも、タロウは「うん、ありがとう。ちょっといろいろ悩んでるんだ」とだけ答え、曖昧な笑みを浮かべた。
最初のチャンス到来
ある日、エージェントからタロウ宛に連絡があった。なんでも、ReactとNext.js(Reactベースのフレームワーク)を使った新規Webサービスの開発案件で、すぐに人を募集しているという。しかも予算が潤沢なスタートアップ案件らしく、時給換算はタロウの現年収を大きく上回る額面だ。
「まじですか……?」
タロウは思わず声を上げる。今の会社に相談せず即答するわけにはいかないが、エージェント曰く「早い者勝ち」だという。スタートアップ側も急いでいるので、即戦力となるフロントエンドエンジニアをすぐにでも確保したいのだそうだ。面談日程は数日後。もし面談で相性が合えば、来月からでも参画可能だという。
「どうする、これ……」
タロウの胸は高鳴る。フリーランスとしての一歩を踏み出す大きなチャンス。しかも技術的にも面白そうな案件だ。しかし、今の会社のプロジェクトはまだ完全には終わっていない。途中で抜けるとなると、リサや上司に大きな負担をかけることになる。責任感の強いタロウには、そこが一番の引っかかりだった。
「このまま社員を続けて、落ち着いてからフリーになるって手もあるけど……こういうチャンスって、逃したら二度と来ないかもしれないんだよな」
心の中で、ミカと佐藤先輩の言葉が交互にリフレインする。
「一度やってみればいいじゃん」「挑戦してみなきゃわからない」「失敗したら戻ればいい」――
しかし、タロウは自分が中途半端な気持ちのままフリーになって後悔するのも嫌だった。万が一プロジェクトで立ち行かなくなったら、信用を失うし、フリーとしての評判にも関わる。責任は会社員のとき以上に重いはずだ。
孤独とワクワクのはざま
面談前日、タロウは自宅で一人、MacBookの画面とにらめっこをしていた。エージェントからは「明日の面談ではポートフォリオ(過去の制作実績や開発実績をまとめた資料)をしっかりアピールしてください」と言われている。タロウも今まで参加したプロジェクトの成果物や、GitHubに上げている個人開発のレポジトリを整理しようと努めていた。
GitHub:ソースコードを共有・管理するオンラインサービス。エンジニアがソースコードを公開し、バージョン管理や共同開発を行う際に活用するプラットフォーム。
仕事をしながらだと、なかなかポートフォリオをまとめる時間が取れなかったが、フリーになるなら本腰を入れて作成しなければならない。夜が更けていく中、タロウはひたすらキーボードを叩いた。
しかし途中でふと、言いようのない孤独を感じる。会社であれば同僚がたくさんいて、煮詰まったら雑談を交わすこともできるし、トラブルがあればチームで助け合う。リサや他のエンジニアが近くにいる安心感がある。フリーになったら自分ひとりでこれをやっていくのだと思うと、急に心細くなった。
「大丈夫かな……」
一瞬、胸がぎゅっと締め付けられる。自分の能力だけで勝負して、その対価として高報酬を得る。成功すればかっこいいし、自信にもなるだろう。失敗すれば全責任が自分に返ってくる。気持ちがぐらつきそうになるが、それでもタロウの奥底には冒険心がふつふつと沸き起こっていた。
「……やっぱり、挑戦してみたい。そう思ってしまうんだよな」
もうすぐ夜中の2時。疲労がたまってきた頭を冷やすため、タロウは立ち上がって台所へ向かう。冷蔵庫から水を取り出して一気に飲み干すと、少しだけ気分が晴れた。
「よし、あともうひと頑張り」
ポートフォリオの編集画面を再度開き、自分が関わったプロジェクトを時系列順に整理し、プログラミング言語やフレームワーク、担当範囲などを詳細に書き込んでいく。その際、成功事例だけでなく、失敗談や学んだことも書き添える。そうすることで、自分のエンジニアとしてのストーリーを伝えたいと考えたからだ。
気づけば空が白み始めていた。タロウは書き終えたポートフォリオを何度か見直し、「これで明日の面談に挑むか」と深く息をつく。多少眠いが、不思議と嫌な疲れはなかった。
面談の手応えと不安
翌日の夕方、タロウはリモート会議ツールを使ってスタートアップの担当者と面談を行った。エージェントも同席し、和やかながらもシビアな技術的質問が飛んでくる。
「非同期処理(同時に複数の処理が行われるプログラミング手法)や、React Hooks(Reactにおける状態管理やライフサイクルを簡潔に扱う仕組み)を使った実装経験について教えてください」
タロウは今までの開発経験を踏まえて、できるだけ具体的に回答しつつ、ポートフォリオを画面共有で説明していく。スタートアップ側の担当者は興味深そうにメモを取り、時折笑顔を見せてくれた。
「いいですね、うちが開発中のサービスにも近い部分が多いと思います。できれば即参画してほしいんですが、タロウさんのご都合はどうでしょう?」
担当者の言葉に、タロウは嬉しさと同時に罪悪感が入り混じったような感情を抱く。即参画ということは、今の会社をほぼすぐに辞めることを意味している。そこにはリサや上司との別れ、プロジェクトの引き継ぎ問題など、さまざまな懸念がある。
「今のプロジェクトの終了時期を見て、会社とも相談してから改めて回答したいと思っています。ありがとうございます」
面談は好感触のまま終わり、エージェントからは後ほど「先方もかなり乗り気です。スキル的にもマッチしてますし、タロウさんならすぐ決まりそうですね」というメッセージが届いた。
「嬉しいけど……」
タロウはスマホを握りしめながら、ひとりごちる。ここからが本当の難題だ。どうやって会社に話を切り出そう?タイミングを間違えれば、周囲から裏切り者と思われるかもしれない。だが、こんな好条件の案件を逃すのももったいない。
リサへの打ち明け話
翌日、タロウは意を決してリサに話をした。昼休み、会社近くのカフェで向かい合いながら、緊張で手汗がにじむ。
「実はさ、近々フリーランスになろうと思ってる。すでにいい案件も見つかって、先方もOKらしいんだ」
リサは少し驚いた表情を見せるが、すぐにうっすら笑みを浮かべる。
「そっか……やっぱりね、最近ずっと悩んでたみたいだし。おめでとうとは言いたいけど、寂しい気持ちもあるな」
リサの声は少し揺れていた。嬉しいのか寂しいのか、複雑そうだ。タロウも胸が苦しくなる。彼女とのチームワークは抜群だったし、これからももっと面白いものを一緒に作っていけると思っていた。でも、同時に自分の人生をステップアップさせたいという気持ちは抑えられない。
「リサには本当、感謝してる。今まで一緒にやってこれて楽しかったし、色々学ぶことも多かった。フリーになっても、またどこかで一緒に仕事できるといいな」
「……うん、私もそう思う。そうだよね、タロウくんの人生だもん。応援するよ」
リサはそう言いながら、少し目を潤ませて微笑んだ。その表情にタロウも胸がいっぱいになる。裏技による年収アップが本当に自分の幸せにつながるのかはわからない。けれど、こうして仲間の存在を感じられるだけでも、挑戦する価値はあるのかもしれないと思った。
会社への報告
週明け、タロウは上司に退職の意向を伝えた。上司は驚きを隠せない様子だったが、タロウの話を一通り聞くと「うちに残ってくれてもいいんだよ?」とやんわり引き留めようとした。しかしタロウの意志が固いとわかると、最後には「後悔だけはしないようにな。困ったら連絡してこい」と背中を押してくれた。
会社としては痛手かもしれないが、もともとエンジニアの流動は激しい業界だ。ある程度は覚悟していたのだろう。退職の時期やプロジェクトの引き継ぎについては、人員補充の目処がつくまで1〜2か月は猶予をもつことで合意した。
これで正式にフリーランスになる道が開けたわけだが、タロウの胸の内には喜びだけではなく、不安や寂しさが大きく渦巻いていた。やはり長く一緒に働いてきた仲間との別れは辛いものだし、これからは自分の看板ひとつでやっていかなければならない。
「だけど、ここまで来たらやるしかないよな。やるからには結果を出してみせる」
夜、自宅の狭いキッチンでスープを温めながら、タロウは小さくつぶやく。会社勤めでは決して得られない報酬や自由を手に入れる一方、すべての責任を自分が背負う。それこそが副作用とも言えるだろう。
初のオフィシャル契約
数週間後、タロウはスタートアップとの契約を正式に結んだ。勤務形態はフルリモートで、週4〜5日ほど稼働する予定。月額報酬は今の給与よりも大幅に高いが、そのぶんタスク量や成果へのコミットメント(達成責任)も重い。
契約書には細かい条項がびっしり書き込まれていて、タロウはエージェントや先輩の佐藤にもアドバイスを仰ぎながらチェックを進めた。納品物の品質保証やトラブル時の対応など、会社員時代とは比べものにならないほど細かくて、タロウは頭が痛くなる。
「ここで妥協すると大変なことになるぞ……」
タロウは慎重に確認を終え、電子契約サービスを通じてサインを入れる。オンライン上で手続きが完了し、エージェントから「正式に契約成立です!おめでとうございます!」というメッセージが届いたとき、タロウは思わず「やった!」と声に出した。
しかし、そのすぐ後、ふと胸に違和感を覚える。嬉しいのに、どこか心が落ち着かない。リサや同僚たちのことが頭をよぎるからかもしれない。
「これで本当に良かったのか?後戻りはできないぞ……」
ワクワクと不安が交錯する中で、タロウは改めて自分に言い聞かせる。「選んだ道を進むしかない。でも絶対に後悔しないように、目一杯やってやろう」と。
フリー初日の違和感
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