失敗という概念を取り去る方法
「失敗」という概念はない。
仕事をしていてミスをした。作った資料に誤りがあった。誤字脱字があった。日時が違っていた…
失敗したら恥ずかしいという思いを持つ人が大抵だろう。 また、恥ずかしいと思わなかったり、自分1人の場合でも、自分を責めてしまうことがある。
これは何が原因なのか。
それは「テスト教育」だ。
テストというのは「ひとつの正解」を導かせるもの。 それ以外は「不正解」となり、完全否定されるのだが、少なくとも日本人も子どもの頃からテスト教育を受けてきて、ひとつの正解以外は間違いなんだ、失敗したら恥ずかしい、失敗することが怖いことなんだ、誰かに怒られてしまう、 こんな感情を持つように育てられてきた。
その結果、失敗しないことが一番良いことなんだという雰囲気が形成される。 しかし何かをやれば必ず間違いはある。それを失敗としていては何もできない。 失敗しない方法があるとすれば「何もしないこと」なんだけど、果たしてそれで人生の生きがいを感じることができるだろうか。
アメリカの社会が全て優れているとは思わないが、アメリカの場合は逆に挑戦しないことを恥ずかしいとする雰囲気がある。 そこまで極端に行ってしまうのもなかなか生きづらいが、日本のように間違い=失敗を悪として、しかも一度それをしてしまうと「一発アウト」のような風潮だと本当に何もできなくなる。
しかも戦後のテスト教育というのは、GHQや欧米が教えたいこと、正解とすることを教えるのだから、私たちの正解ではなく、所謂「他人の正解」ということになる。
他人の正解、社会の正解を追い求める。 しかしそれが必ずしも自分の正解と一致することはない。
だから苦しい。
自分は本当はこう思う。 でも社会ではこう言われている。 こうしなければいけない。 自分が思ってもいないのに、それを自分の意思として行動するからおかしなことになる。 そして自分をコントロールできないから、他人をコントロールしたくなる。
かなりの悪循環だ。
「社会の正解以外は失敗」
私たちはこの「失敗」という概念を取り払わなければならない。
ではどうすれば良いか。 「失敗」というものはこの世にない。 あるとすれば何もしないこと。
だから行動している時点でもうそれは成功なんだ。 何か「間違い」が起こったとしても、それはただそういう現象が起きたというだけ。 そのことにより、恥ずかしがったり、自分を責めたりしなくて良い。 その意識をまずは持つ。
そして訓練としてでも良いから何か行動を起こす。 ここで注意してもらいたいのが「結果を求めた行動」は訓練としてしない、ということだ。 結果を求めるから途端に何もできなくなり、その結果以外は失敗だと思ってしまう。 そうではなく、その行動をしていること「自体」が楽しい。やっているだけで満足。 そういう行動をする。
私も心当たりがあって、 小中学校の頃だったか。 友だちと釣りをしていた私。 友だちが「全然釣れないね。」と言った。 私は子どもながらに「釣れなくても良いんだよ。こうやって水辺でのんびりしながら竿出してるだけで気持ち良いからさ。」 と言った。 きっとこういうことなんだと思う。
「結果を求めない行動は何も生まない。」
そう思うかもしれない。
違うそうじゃない。
別に仕事ならそうかもしれない。
しかし私はあくまで「人生を豊かにするにはどうしたら良いか」ということに言及している。
そのうえでは、自分がやっているだけで楽しい、ということをする。
そうすれば「失敗」という呪縛から解き放たれ、人生を豊かにしていける。
楽しい時間や、夢中な時間に人は人生のやりがいだったりを感じる。
何か結果が伴うこと、例えばさっきの「釣り」の例でも、結果ではなくそれに至る過程を楽しむ。そうすれば人生が楽しい。
「失敗」はない。
やっている時点でそれで良い。
それでいいんだ。
やっているだけで充実感を感じることをしよう。
エネルゲイア状態になろう。
かの玉置浩二も言っている。
「生きていくんだ。それでいいんだ。」
「失敗」というものはない。
間違いはあるけど
ただそういう「現象」が起きただけ。
テスト教育の弊害で、「失敗したら恥ずかしい」とか、他人がいなくても自分を責めてしまうけど、それをしていたら前に進まないからどんどん進めば良い。
他人に迷惑かけることはみんなそうだからある程度仕方ない。
「失敗」の概念を取り去る練習は、「結果」を求める行為ではしない。
ただそれをやって楽しい。
だからそれをやる。
そうすれば、何か間違っても失敗とは思わないし、「その先に何か求める」とかすると何もできなくなる。