友達の誘拐未遂体験談や自分も目撃した可能性。飯能育ちには身近な恐怖だった宮崎勤事件(東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件)
前回の宮沢湖のネタで最後に「宮崎勤事件(東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件)」について書いた。それで色々と思い出した。
前回も書いたが、自分はちょうど被害者達と同年代であり、幼少期の様々な側面に暗い影響を及ぼした、と今になって思う。
事件の詳細はネットの情報に譲るとして、事件当時犯行エリアである飯能で生まれ育って幼少期を過ごした自分の経験や知っている話を思い出してみる。
まず覚えているのが、誘拐事件が騒がれ始めた頃、おそらく一番目の入間市の事件が発覚した頃、母親は非常にピリピリしていた覚えがある。当時自分は5歳で兄は8歳であった。玄関の戸締りをしっかりし、行き先がすぐ近くだとしても子供だけででかけるのを禁じた。出かける際は必ず母親が付き添ったし、兄の小学校の登下校も通学路の途中まで付いて行き見守った。
自分は事件のことは親から聞かされていなかったが、何か怖いことが世の中で起きていることは感じ取っていた。近所の人の防犯意識も高まっていて、周囲の警戒する視線を必要以上に感じていた。
しかし、まだ幼かった自分は2番目の飯能の被害者のことも知らなかったし、ようやく逮捕されて宮沢湖霊園に実況見分に連行されて騒がれていたことも知らなかった。ただ、長期間テレビのニュースで盛んに報道されていたのを観ていて、その異質性などは感じ取っていた。
事件が終わりを迎えても、しばらくはこの閉塞的な雰囲気は周囲にあったと思う。これは飯能に住んでいる者にとっては、犯行エリア内であり、身近な恐怖だったという、特別なものだと思う。例えば同年代の子供がいても、飯能・入間などの埼玉県西部や多摩地区以外であれば、どこか遠い土地の出来事で、現実感や危機感は薄かったと思う。
自分は男兄弟の家庭なので、女の子を持つ家庭よりはそこまで深刻でなかったのかもしれないが、とにかくこの事件で騒がれていた約1年間は、母親は緊張して警戒しっぱなしで、多大な心的ストレスがあったはずだ。
それから数年後の小学生高学年の頃、通っていた塾が同じで友達になった他校の集団の中に、とある女の子がいた。なぜその話になったのか覚えていないが、その集団の子達や女の子の話によると、なんとその女の子は以前、宮崎勤に誘拐されそうになったそうだ。
家の近所で一人で遊んでいたら、変な大人の男の人に声をかけられた。そしてなんだか怪しい雰囲気で恐怖を感じたため、大声をあげて叫びながら逃げた。そして事なきを得た。その後、警察から色々聞かれたりしたそうだが、どうやら結果的には近くの別の子が被害に遭ってしまった、という話だった。
事件から数年経った頃であり、まだ子供だったのでみんな普通に話していたが、本当に恐ろしい事件が身近に起き、一歩間違えればその子が被害者になっていて、今こうして話している未来は無かったのかもしれない、と子供ながらに驚いたのを覚えている。
ターゲットになったのが自分の同年代の女の子達であったので、実は同じような体験をした子というのは、他にも飯能市内に何人もいて、自分の知り合いの中にいたかもしれない。
そして、大人になって再び思い出した、自分の体験がある。確か年齢は3歳前後(つまり1986年前後)。昼間に近所の同年代の子達数人と、庭にある砂場で遊んでいた。もちろん親達もその場にいた。
自分がふと家の方を見ると、家の物陰に男の人が立っていてこちらを見ていた。しかもズボンを下ろして・・・。完全な変質者である。
が、あまりそういうのも分からない年齢だったので、母親達にあそこに人がいる、と伝えた途端、悲鳴をあげる親達。走って逃げ去る変質者。
大騒ぎになり警察に電話し、交番からお巡りさんがバイクでやってきて事情聴取。ならびに周囲の警戒。しかし、まだ昭和の終わり頃で今ほど世間の防犯意識が高く無かった時代(+飯能という田舎)である。そこまで大騒ぎにならずに終わってしまった。我が家は数日間警戒したが。
今考えるとあの変質者が、付近をうろついていた宮崎勤でもおかしくない(変質者のターゲットが親達でなければ、だが)。
今となっては、宮崎勤事件(東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件)はもう30年以上昔の話であり、飯能も事件の舞台になったが、忘れられている部分が多いと思う。
しかし、こうやって思い出してみるとやはり自分の身近な恐怖であったことは確かだし、嫌な時代だったと思う。
もちろん時代のせいではないのだけど、テクノロジーが発達したおかげか最近は昔以上に安全安心な世の中になったのではないか、と子供を持つ親になった自分は感じている。こういった世の中に暗い影を落とす悲しい事件は二度と起きて欲しくない。
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