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八高線電化前のディーゼル時代の東飯能駅。DD51重連が牽引するセメント貨物、ハサミで切符を切る有人改札を通り地下道でホームへ

以前、飯能の鉄道関連昔ネタとして、飯能駅の消防署脇にあった貨物の引き込み線の話や、元加治〜飯能間に長年残っていた単線区間の話を書いた。

飯能市内を走る鉄道といえば、やはり西武鉄道であり、西武池袋線・秩父線が主役な感じもあるが、忘れてはいけないもう1つ重要な路線がJR八高線。
そしてそのJR八高線と西武池袋線の接続駅が東飯能駅である。東飯能駅はあまり利用したことがなくそんなに記憶がないし、新しく綺麗になって丸広が出来てしまってからは、まったく別の駅のようで自分の中では、昔の東飯能駅と脳内で一致がしないのだが、思い出してみる。

まずWikipediaによると、東飯能駅の歴史で大きな節目としては、1996年に八高線が電化され、1999年に新駅舎が誕生、2000年に丸広百貨店東飯能店(現:丸広百貨店飯能店)が開業したらしい。
旧駅舎は、赤い屋根が特徴的だった。Googleで検索するとたくさん写真が出てくるのは、ありがたい。こぢんまりとした、いかにも田舎や地方にあった昭和の国鉄の駅、という感じがする。当時の駅はJR(国鉄)管轄だったのだろうか?駅前のロータリーも小さめだったし、駅前にはまたもやいかにも昔ながらの車屋(日産系列の修理工場?)があった気がする。鰻屋さんは変わらずあった。駅前のビルの1階にはコンビニのam/pmがあった時代もある。

旧駅舎で特徴的だったことが2つある。1つ目は改札口。確か西武鉄道とJR共通だった気がする。珍しい運用形式だと思う。
改札は自動改札ではなく、人が切符を切るタイプだった。券売機で切符(硬券)を買い、駅員さんに渡すとハサミでかしゃんと切符に切り目を入れてくれる。改札口にいる駅員さんは、お客さんが来ない時はカチャカチャとハサミをリズムよく動かしていたのを覚えている。

そして2つ目の特徴が、改札口を抜けた先。西武池袋線のホームはそのまま繋がっているのだが、八高線のホームに行くには階段を降りて暗い地下道を渡る必要があった。そして八高線のホームに続く階段を登ると、八高線のホームの八王子寄りの先端に到着する。この地下道によりホームへ行くという構造もいかにも昭和な駅の構造で懐かしい。

八高線のホームに上がると、よくディーゼル機関車のエンジン音が響いていた。自分が子供の頃は高麗川にある太平洋セメント埼玉工場専用線からの貨物輸送が行われており、DD51が牽引する貨物が頻繁に走っていた。八高線は単線のため、東飯能駅の側線に貨物列車が停まり、八王子方面からくる列車との交換待ちをしていた。
駅も国鉄っぽい古めかしい雰囲気なうえに、貨物が側線に停まっているという、本当に昭和な田舎な光景が楽しめた。なお、八高線の貨物列車の廃止は1999年9月らしいので、実は新駅舎との共存期間が半年ほどあったようだ。
DD51が牽引する八高線の貨物列車は、阿須にある入間川にかかる鉄橋を渡るのを小さい頃からよく見ていたので、自分の中での「昔の八高線」の代表格である。
八高線の貨物列車については懐かしい写真が沢山あるサイトを見つけたので貼っておく。

自分にはもう1つ、昔の八高線の印象的な記憶がある。
小学生低学年の頃(1990年前後)、母方の祖父母が住む玉川村(現:ときがわ町)まで、3歳年上の兄と2人で電車に乗って泊まりに行ったのである。子供だけで初めての小旅行である。
親が東飯能駅まで送ってくれて、兄と二人で渡された切符を持ち改札口を通過。そして、地下道を通り八高線のホームへ。親が手を振る姿が見えた。
電車ではなく、気動車が来て乗り込む。調べるとキハ30もしくはキハ35という形式らしいが、外吊り式の扉がすごい荒々しい音で開く。そして車内はなぜか高くなっており、出入り口で数段昇る必要があった。ディーゼル独特の唸る音で走り出し、兄と二人だけの短い旅が始まった。非電化時代は高麗川駅での分離運転でなく、高崎行きの列車のためそのまま数十分乗って明覚駅で下車。携帯電話もまだない(一般には普及していない)時代だったが、電車の時刻表を基に駅で待っていた祖父と出会い、祖父母の家で一泊して翌日、車で迎えに来た両親と飯能に戻った。

西武池袋線は東京方面という、飯能より都会な街々へ向かうので、なんだか少し大人な世界を感じるワクワクな思い出や印象がある。一方で八高線は、飯能より田舎な方面に向かうし、上記のような子供時代の初めての兄との二人旅という思い出があるので、自分にとっては「冒険」という言葉に近い印象がある。
東飯能駅はそんな小さい頃の、昭和・平成初期の「冒険」に相応しい佇まいだった。

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