平成初期(1990年代)の、とある小学生の1日の様子を思い出す@埼玉県飯能市
自分が小学生だった平成初期、1990年〜1995年頃の1日の様子を思い出してみる。当時は埼玉県飯能市に住んでいたため、関東近郊でないと分からない話もあるかもしれないし、そもそも埼玉県飯能市あるある的なローカルネタが、いくつか散らばっているかもしれない。
朝
小学3〜4年生の頃、朝6時に一家で誰よりも早く起床し、6:10放送開始の「ウゴウゴルーガ」を8チャンネル(フジテレビ)で観る。今では信じられないが、キー局が朝の時間帯にニュース番組ではなく、子供向けのバラエティ番組を放送していた。当時としては先進的なCGを使った番組だったし、みかん星人などシュールなネタ満載、そのうえこんな早朝から子供を使って生放送をやる回もあって、平成初期らしい昭和やバブル時代の破天荒さが残る世界であった。コンピュータ技術の進化も感じることができて、子どもながらに技術革新にワクワクしていた。
登校
7:30頃、小学校へ行くために家を出発。通学班制度があって、兄が班長だったし、兄が小学校を卒業した後は自分が班長だったり。班長は、通学班が横断歩道を渡る際に使う「横断旗」を所持。木の棒に横断中の絵(横断歩道の標識?)が描かれた黄色い布が付いたもので、下校時などはランドセルの脇に挿す。小規模の地区では長年使用され続け使い古されて持ち手の木の棒の部分がボロボロになって痩せ細った横断旗だったりした。果たして今はこのような横断旗を通学班が使っているのだろうか?もし使っていたとしてもプラスチック製とか?
通学班は地区ごとに、近所の数人〜10人程度のグループとして決まっており、指定の集合場所があった。そこへ集合時間に集まり、1年生から6年生まで集団になって縦一列で道路を歩いて学校まで行く。
携帯電話がまだない時代、休みの連絡とかは親が集合場所まで伝えに来たのか、それとも班長や誰かの家に朝電話していたのだろうか。システムを覚えていない。
通学路はあまり車が通らない細い道が中心で、途中湧き水が出ている沢の横では自転車に潰されたサワガニを良く見た。まだ宅地開発が進んでいない飯能の豊かな自然が残されていた。
一方で、柵もなく道路の真横にある掘(小川)もあったので、転落にも気をつけないといけなかった。さすが田舎っぽい。
飯能には当たり前にあった茶畑が潰されて住宅地に変わり始めた土地や、ただの原っぱの横を通り、金属加工の町工場が朝から稼働して金属の匂いとグラインダーの擦れる音がする脇を通り過ぎたら、通学路唯一の少し大きめの交差点。車の通りはそこそこあるが、信号機は無い。
緑のおばさん(学童擁護員と言うらしい)がたまに立っていて、子どもの安全を見守り、車を停めて横断を誘導してくれる。今は父母の会で運営しているところが多そうだが、自分が通っていた小学校ではそういった親の負担は当時はなかった。
緑のおばさんがいない時は、班長(高学年、通常は6年生)が責任を持って車の状況を見て、横断旗を広げて通学班を渡らせる。
交差点という一大ポイントを抜けると、歩道が無くセンターラインも無い道幅なのに相互通行でそこそこ交通量がある難所が続く。そんなに危険な思いをしたことはないけれど、先頭に立つ班長と一番後ろに立つ副班長が低学年の子達を見守る。
ここでは昔「タッチおじさん」と呼ばれる、子供達とすれ違いざまにタッチしてくれるおじさんがいた。今そんなことをしていたら通報案件になってしまう可能性もあるが、まだのどかな時代だったのである。
その後、我々の通学班は車も通れないような民家の隙間を曲がりくねった裏道を通り(自分の地区の通学班だけ、なぜかそこの通行が許されていた)、またもや茶畑に囲まれながら小学校に着くのであった。道のりとしては小学生の足で10〜15分程度だったと思う。
小学校
飯能市内の小学校(の一部)として特徴的なことは、横田基地を離発着する航空機の飛行経路の真下に当たる一定のエリア内にある場合、騒音対策のために教室の窓が二重窓で、窓を開けるとうるさくて授業の妨げになるという理由で冷房完備であった。「〇〇小学校は校舎の半分しかそのエリア内にないので、特定の半分の教室だけクーラーが付いている」なんていう本当かどうか分からない噂もあった。いずれにしてもあの頃、公立の小学校でクーラーが付いていたところは珍しかったはずだ。
授業についての記憶はほとんどないのだが、特徴的だったのが社会科と理科を廃止して合体させた「総合授業」とも言うべき新カリキュラムが適用された経験がある。あまり詳しく覚えていないのだが「くらし」とかそういう形のもので、地域のことについて勉強したり、教科書が無いようなテーマが多かった。おかげで、大事な日本の歴史とかの社会科の勉強をすっ飛ばしてしまい、中高生や大人になって少し苦労した。
給食は各校で自前調理方式(ただし、米だけは「はんきゅう」による炊いたご飯の配給だった気がするが、記憶違いかもしれない)。給食センター調理方式でなかったため、いつも美味しい温かい給食が味わえたのは幸せである。食器は最初はアルマイトの銀色の食器で使い古されて凸凹していたりするものだったが、高学年になるとプラスチック製の綺麗なものに交換された。
牛乳は埼玉県日高市にある西武酪農乳業。自分が小学1年生の頃は、まだプラスチックのテトラパックだった。飲み終わった後、上手に畳むと小さな三角形でコンパクトになって捨てることが出来るので、1年生の時に高学年の子から教わる機会があるのだが、自分はいまいちうまく出来ず、いつも隣の席の女の子にやってもらって助けてもらっていた。2年生か3年生の頃にテトラパックの牛乳は廃止され、普通の紙パックの牛乳になった気がする。
給食で人気のメニューは「ココア揚げパン」。休みの人がいるとその子の家まで持っていく、というルールもあったほどの人気っぷり。正直、飯能らしいメニューはなかった(飯能のローカルフードなんて当時は無い)。
クラブや委員会活動は特に変わったものはなかったが、飯能独自のイベントとして「仲良し音楽会」「仲良し運動会」が有名である。単純で何のひねりもないネーミングだが、飯能の小学生にとっては一大行事である。
仲良し音楽会は、各学校代表として選抜されたクラスのみが参加できる音楽会である。選抜されると飯能市民ホールで開催される仲良し音楽会に参加し、飯能河原に寄って帰るなど、まるで遠足のようなイベントで楽しかった。
一方、仲良し運動会は、要するに飯能市内の6年生を集めた合同競技会のようなもので、特定の競技に選抜メンバーとして参加することが求められる。放課後に臨時の練習をしないといけないのが非常にめんどくさく、そのせいで習い事の時間と調整が必要になるのだが、自分は幸運にも走り高跳びという、練習してもたいして記録も伸びず、そもそもの身長や体格が記録につながる、という単純明快な競技に選ばれたので、練習なんかほとんどせずに終わった。仲良し運動会の唯一の良いところは、市内の小学6年生が全員集まるので、小学校の途中で市内の別の学校へ転校してしまった昔の友達と久しぶりに再会できたり、普段は塾で会う友達とのつながりで友人の輪が広がったりすることだった。
下校
14時台もしくは15時台に下校。16時まで学校に残っていると、だいぶ遅いという感じだったと思う。
下校時は各クラス毎ばらばらなので、方向がなんとなく同じ友人と一緒に帰るか、そういう友人が見つからない場合は一人で帰るかのパターンだった。飯能なんてそもそも人が少ないんだから、小学生が一人で帰るのは今思うと危ない。
基本は通学路と同じ道を通って帰らないといけないのだが、まだ自然が残っていた当時、小川や沢に寄り道したり、畦道のような所を通ってヘビに遭遇して戦ったり、と子どもながらに毎日冒険をして帰っていた。これまた今思うと本当に色々な危険があるのだが、田舎な部分も残っている当時の飯能ならではの体験が出来た。
帰宅後
帰宅後は、塾や習い事に行くか、それが無い日は友達の家に遊びに行くことが多かった。友達の家で遊ぶ場合はたいていファミコン&スーファミで遊ぶことが多かったが、桑畑を走り回ったり、阿須山のサンショウウオが住む沼で遊んだり、と野山を駆け回って遊ぶこともあった。また、自転車に乗り駄菓子屋(一階屋と勝手に呼んでいる店が川寺にあった)に行ったり、サビア飯能のハローマックでおもちゃを見たりゲームセンターで遊んだり、飯能銀座商店街のおもちゃ屋さん丸見堂へ行ったりもした。自転車での行動範囲が相当広かったが、これまた今では小学生の行動としては少し危険が多すぎるかもしれない。
夕方のテレビ番組。あぶない刑事、ルパン三世、シティーハンター、ドラゴンクエスト
友達と遊ばず、夕方家にいる時に見るテレビと言えば、日テレで16時台によく再放送していた「あぶない刑事」。当時は遠いどこかの街という印象でしかなかったが、横浜の港町や赤レンガ倉庫付近の昭和な光景が観られて楽しかった。(まさか直通運転により、飯能駅からみなとみらいまで電車一本で行けるようになる時代が来るとは)
17時台はルパン三世やシティハンターの再放送。フジテレビでも夕方16時台にドラゴンクエストのアニメを放送していた。朝と同じで、キー局はこの夕方の時間に今では当たり前のニュース番組でなく、アニメの再放送で攻めていた。夕方のテレビは、子どものための時間だった。
18時台のテレビはテレ玉でガンダムの再放送と、十万石まんじゅうやむさしの村のCM
埼玉県民にとっては18時台のテレビは、テレ玉(当時の呼び方はテレビ埼玉)でアニメ再放送。しかもめちゃくちゃ古いアニメも再放送していた。有名どころであれば、機動戦士ガンダムを初代からZZまでひたすら再放送してくれたり、イデオンも観た。あとは、おじゃまんが山田くんなど、当時としては10年以上前の世代遅れアニメも再放送していた。もっと古いものとしては、小さい頃に黄金バットやデビルマンも観たことがある。古すぎる。当時でも30年前の作品たちだ。さすがテレビ埼玉である。
このテレビ埼玉のアニメ再放送を観ていると必ず放送されるのが「風が語りかけます。うまい、うますぎる」で有名な十万石まんじゅのCM。それと合わせて、個人的には「♪むさしの村〜」という歌が特徴的な遊園地むさしの村のCMも埼玉県民あるあるだと思う。どちらも、飯能市民にとってはまったく縁がない、同じ埼玉でも遠く離れた地域の場所のものであり、CMでしか知らない存在であった。
夜のテレビ番組はドラゴンボールZ、サザエさんの火曜日版、クイズ世界はSHOW by ショーバイ!!、マジカル頭脳パワー!!
夜ごはんを食べながら、もしくは食べた後に見る番組といえば、やっぱり夜7時台のアニメ。水曜日のドラゴンボールZやサザエさん(火曜日版)。サザエさんが週二回も放送していたとか、いまでは信じられない。土曜日だとテレビ朝日で「南国少年パプワくん」などもやっていたのだが、やっぱりアニメはフジテレビが中心であった。日テレも、YAWARA!やコボちゃん、金田一少年の事件簿などで頑張っていた。
アニメタイムが終わる20時台は、日テレのバラエティーが黄金時代。「マジカル頭脳パワー!!」を観ていないと、翌日以降の学校での友人達との会話やゲーム(マジカルバナナなど)についていけなかった。
別のクイズ番組としては「クイズ世界はSHOW by ショーバイ!!」は逸見政孝さんが印象的だった。平成教育委員会も同じく、逸見政孝さんは当時のクイズ番組の象徴であった。
少し夜更かしして観るテレビといえば、なるほどザ・ワールド、TBSの徳川埋蔵金発掘とドミノ倒し
お風呂に入って夜寝る前、21時以降の時間帯に少し観ることが出来るテレビ番組といえば、まずはフジテレビの「なるほどザ・ワールド」。まだ行ったことのない世界中の外国の名所や様子を知ることが出来てワクワクした。世界の広がりを感じた。大人になって色々な国を訪れるようになった際に、子どもの頃に「なるほどザ・ワールド」を観て憧れていた風景であることを思い出すと感動が倍増する。
もう1つ強烈に覚えている番組がTBSでやっていた「糸井重里・徳川埋蔵金プロジェクト」と「ドミノ倒し」。徳川埋蔵金に関しては、何かよく分からないことを延々とやっているな、と思いつつも「山を掘って、埋蔵金が見つかる(かもしれない)」という壮大なプロジェクトに子供心をくすぐられた。
ドミノ倒しは、完成した後の様々な仕掛けが楽しかった。
当時の小学生はテレビが命
結局、毎日ずっとテレビばっかり観ていたテレビっ子という事実が判明しただけだが、インターネットがない時代はそれが一番の娯楽であり情報源だったので仕方がない。人気の番組を観ていないと友達との話題についていけないし、人気の音楽や芸能人の情報を知ることが出来ない。子供にとって、テレビは重要な存在だった。
そう考えると、テレビ埼玉を観ることが出来た環境というのは、飯能らしい要素に思える。昭和の古いアニメの再放送を見て育ち、まだ自然が残る飯能で過ごした小学生時代は、都会から少し離れ、良い意味で少し遅れた雰囲気があるトカイナカな飯能ならではだったのかもしれない。
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