殴り書き
吐き出したガムの味って覚えてる?
潔癖症だなとつくづく思う。否、潔癖と言えど思考、宗教チックな潔癖である。
一番最初はほんの些細なものから始まる。物事の大半がそうだ。心の底から何かをしたい、と思って始めたことこそ継続が難しい。
幼い頃から小説が好きで、きっかけはゲーム雑誌のほんの小さいスペースにある小説特集。児童小説の表紙がとても可愛かったので、親にねだって買って貰った。そこから毎月少しづつ、買ってもらったり、図書館で借りたり、お小遣いを貯め、自分で購入して本を揃えた。
昔から綺麗なものが好きだった。それこそ、小説だってそうである。日本語というものは美しい。音楽が好きなのも同様の理由からで、音、メロディ、歌詞、全てが美しい。そこから徐々に、美しさ、綺麗さ、を重要視するようになっていったのではないかと考える。
思想というものは、幼少期から培った何かで形成される。教育、環境…。
美しさ、綺麗さ、これらを求め続けるといつのまにか 綺麗に生きねばならない という強迫観念が押し寄せてくるようになった。それこそ自身のビジュアルに関してはもちろん、人間関係にもそれを求めるようになる。
私の母は幼い頃から、祖母の異性関係のだらしなさに不満を抱いていたらしい。反面教師として、私の前で一切男性との関係を匂わせた事は無かった。父とは2歳の頃に離婚しており、私も家庭で異性に触れる事はまずなかった。具体的に何かを言われたわけではないが、性欲は醜いもの、という感性が徐々に構築されていった。
キリスト教の話になる。
聖母マリアの、処女性と母性を兼ね備えた無償の愛、なんて美しいものなんだと、そう感じた。聖書を読む前から抱いていた言語化し難い感情が、一言でまとまっていた。「アガペー」私はいつまでもこればかり考えていたのだろうな、と思う。
性欲そのものに嫌悪感があった私は、学生時代は大分捻くれていたため、当時私に好意を寄せていた人達には申し訳ないことをしたと思う。好き、という2文字に不信感があった。それはただの性欲では?ただ、孤独を埋めるための材料として搾取されているのではないか。そんな考えばかりで、素直に気持ちを受け取れなかったんだろうな、と思う。今でも少なからず猜疑心は残っているが。
嫌悪感はあったものの、それこそ性に執着がないからなのか、身売りをして稼いでいた時期もある。人生において、性を重要視したことが無い。もちろん性欲が無いわけではないが、女性は身体的な気持ちよさを求めるより精神的な気持ちよさを求める、という話を聞いたことがある。つまり私はそれであり、それはセックスをしなくても得られるものなので、そこまで生活に必要なものでは無かった。
それこそ、上記に述べた通り、環境が思想を作り上げる。
まあこれも常識とはかけ離れた思想であることは間違いない。
それもあって、腐った恋愛をしてしまうし、ジェットコースターのような恋愛もそれはそれで楽しいなと思える。
しかしながらそれは、相手が苦しみや辛い境遇を抱えながらも、思いやり、大切、という温かい気持ちを渡してくれるため、こちらも温かい気持ちでいられるから成り立っているだけで、現代の 退廃の美 という謎エモ文化と混同しないで頂きたい。
人生は別れと出会い、終わりと始まりの連続で、時間が経てば感情も、匂いも空気も温度も色も全ての輪郭がぼやけてしまうのだろう。
私は吐き出したガムの味を思い出せないままでいる。
幼い頃父の車で食べたキシリトールのガムを、今噛んだとしたら、あの時と同じ気持ちに戻れるだろうか。