象と暮らす町、スリン。 ①
カンボジア国境の県、スリンへ。
職場の方からのお誘いで、急遽、タイ東北部(通称イサーン地方)の一つ、スリンへ行くことになった。
イサーンへ行くキッカケは、昨日のnote.を。↓
これが面白いのが、ただ「旅行に行こう。」というお誘いではない。
実家に帰って、一緒にタンブンしようというお誘い。
タンブンは前回のnote.でも書いたように、形様々なのですが、実家で何かをするということは、日本でいうお盆に参加するようなもの。
その家にホームステイで来ていて…なら分かるものの、ただ職場が同じというだけで誘ってくれた。しかも前日に。
なにそれ、好きすぎる…
バンコクからスリンまでは車で約6時間半。
日本でいうと、大阪から長野に行くくらいの距離だろうか。
夜に出発し、朝方に着くように向かった。
狭い車内を大人5人がぎゅうぎゅう詰めに座ったから、
それはもう眠れたものではなかった。
到着して、タンブンに向かうまでの時間は、職場の方の実家で仮眠をとることにした。
でも、まぁなんとニワトリの鳴き声の合唱で迎えてくれ、まぁ寝れない。
ずっと、コケコッコ、コケコッコと鳴く。
わぁ…田舎に帰ってきたんだ。
ずっと求めていた田舎特有の音、香り、時間の流れと久しぶりに再会し、懐かしく思う反面、田舎の煩わしさを少し思い出した。
それから、豪華な朝ごはんを食べ、
車を20分ほど走らせ、タンブンをする場所に向かった。
タンブンを一緒に。
タンブンをする場所には、案の定、親戚が大集合。
地域のお坊さんたちの前が前列にずらーっと並び、その前にはお供物があった。まるで、お坊さん達、その方々自体が、仏像にも見えるかのような不思議な光景だった。
お坊さんの言うことを復唱し、
(真似してごにょごにょ言ってみたけど、全然わからんかった)
聖水のようなものをかけていただき、
一通りの流れが終わったら、お供えしたものをみんなで食べた。
この全員で何か良いものを食べるという様子。
なにか既視感があるなぁと思えば、
毎年の元旦、地域の人と集まって、お節料理を持ち寄って食べることと一致。
久しぶりに会う人もいれば、ほぼ毎日顔を合わせる人とこうして、今年はどんな年になるんやろ?と語り合いながら、新年を過ごす。気がつけば、幼い頃からこうして「タンブン」を行っていたのかも。
それから、お坊さん達にもう一度、お清め?をしてもらったが、見様見真似でやっていたものだから、
お坊さんに、まだ初心者なんだね。と微笑んでもらえたことも良い思い出。
村の中を歩いてみると。
タンブンが終わり、夕飯の準備も一通りしたので、村の中を散歩してみることにした。
やはり、日本人が珍しいのか、
じーっと見つめてくる人もいれば、手を振ってくれる人、どこから来たの?と声をかけてくれる村人たち。
車を20分ほど走らせるとスリン県の中心部なのだけど、この村はどちらかというと、”こんなところに日本人!?” で取り上げられてもおかしくないくらいの規模だった。
牛がのそのそと練り歩き、
ニワトリがこっこと声を上げながら走り回る。
田んぼでは虫の鳴き声があっちゃこっちゃから聞こえ、
色とりどりの花を見ては、かわいいなぁと心落ち着く。
それから、澄んだ広い空がわーっと包んでくれる。
本当に何にも無い。
何にも無いところから垣間見える、贅沢さと久しぶりに触れ合った。
次の日の朝、日本人のわたしたち(もう1人日本人の女の子がいました)がいると噂を聞いた村人たちが、家まで訪ねてきた。
田舎の本領発揮。
おじいちゃんとの思い出。
散歩が終わってから、夕飯にリクエストしていたムーガタを食べた。
ムーガタを食べながら、誘ってくれた方の旦那さんのエーさん(以下、エーさん)が歌を歌おうと言い出した。
エーさんの年齢は50代なので、勿論、私が知っているタイの曲はなかった。
スリンを題材にした歌を聞かせてもらったり、
歌詞を必死に追って、なんとなくのニュアンスで意味を汲み取った。難しすぎましたね。
そんな困惑している私を見限ってか、
エーさんが今度は日本の曲を流そうと提案してくれた。
偶然にも、エーさんは日本で働いたことがあり、日本語はどちらかというとプロフェッショナルだった。
そこで流してくれたのが、
夏川りみさんの「涙そうそう」だった。
沖縄に関する曲は綺麗なものが多いから、大好きとのこと。
緑に囲まれ、涼しい風を受けながら聞くこの曲は格別だった。
涙そうそう。
個人的な話になるのだが、「涙そうそう」は大好きなおじいちゃんが一番大好きな曲だった。
隣のおじいちゃんの部屋の窓越しから、何度も耳がタコになるくらいに聞いた曲。
歌謡を聞いて育ってきたおじいちゃん特有の癖のある歌い方が耳にまだ残る。
大好きな曲だから、おじいちゃんを看取る時、涙そうそうを耳元に流してあげた。
今考えたら偶然なのかもしれないけど、少し目を開けてくれて、ちょっと微笑んでいた。
おじいちゃんが、英語を勉強しなさいって、小学生の時、口酸っぱく言ってくれたものやから、英語の勉強を始めた。
それもおじいちゃんの戦争の体験話を聞いての流れで、よく英語を勉強しなさいって言われた。
アメリカ人と英語で会話できたら、もう戦争しようって気持ちにならないからってことだった。
おじいちゃんとの最期は、高校1年生の時。
なんか最期におじいちゃんに言いたいことない?
って言われて、咄嗟に出てきたのが、おじいちゃんの作る卵焼き美味しかったってことと、いつか海外に出て活躍する夢叶えるねってことだった。
活躍してるかは別として、
ルーツを辿れば、おじいちゃんのおかげで、今タイにいる。
長くなってしまったので、後半に続く…