ウェルビーイングと私 aynon
『地球上の生きとし生けるもの全てがその生態系ありのままに幸せに生きられる世界』それこそが私が実現したいウェルビーイングの世界。いささか抽象度が高めだが、この最終的なゴール実現のために少しずつ出来ることから始めていけたらと思っている。
十数年前のある夕刻、両親が新しく向かい入れたという犬に会うために夫と実家に訪れた。犬、といえば今までは柴犬や秋田犬などの日本犬しか想像できなかった私の目の前にもこもこの毛糸玉がまるで意思でも持っているかのような元気いっぱいのとても小さなトイプードルが飛び込んできた。この世の陽を全部詰め込んだような生命力あふれるその子に一瞬んで心を奪われた私は、この仔の原点が知りたいとの衝動に掻き立てられ、すぐさま向かい入れたというペットショップに行ってみることにした。
初めて訪れたペットショップには区切られたたくさんの小さなショーケースが陳列されていた。その中に様々な種類の仔犬・仔猫たちが思い思いに過ごしており、その愛らしいことと言ったらこの上なく、ここは夢の国かと本気で思った。ショーケースから覗くどの顔もきらきらと輝いていた。
ふと思った。「この仔たちの親はどこにいるのだろう」と。ペットショップには仔犬・仔猫しかいない。親はどこにいるのだろう。
自宅に戻り、好奇心からPCで「ペットショップ 親犬」と検索してみた。パンドラの箱が開いた。
調べれば調べるほどに、親犬・猫の置かれている現状に打ちのめされ、また夢の国にいたと思っていた仔たちでさえ、その見栄えのためだけに断尻・断耳されている犬種もあることが分かった。プードルも生後数日で断尻されるようだ。
知らなかったこととは言え、両親が迎えたあのプードルの親を思うと、申し訳なさでいっぱいになり、せめてもの罪滅ぼしと動物愛護のボランティアを始めた。
気が付くと私は7頭の買い主となっており、もうこれ以上の頭数の面倒を見るのも限界になっていた。と同時に、この状況を本当に変えるために必要なこと、それは人間のマインド、それ自体を変えていくことが大切なのだとの思いに至った。
人間とはなんと勝手で、自分の欲を満たすためなら他人やその他の生命体の犠牲をも厭わない。私は無神経で、自分とは違う意見もあるのだとの配慮がつゆほども感じられないこの生命体が好きではない。ゆえに私自身のことも嫌いだった。
祖父・父ともに浮気性で、子供の頃から祖母からは昔の、母からは今の愚痴や悩みを聞いて育ったわたしは、女性は美しく、かつ若くなければ価値がない、と思うようになった。それがいつしか紛れもない真実となってわたしを縛り付けた。
小中学生の頃から、朝、髪型が気に入らなければ学校にも行けず、絶えず人から見たわたしを意識して生活をしてきた。
10代の頃から1つ年を超える誕生日が、女性としての破滅の階段を一段ずつ上っているようで不安で、恐ろしかったのだ。1つ年を重ねることで、また一人誰が離れていくと本気で思っていたのだから、なんと健気な子供だったろうと自分でも思う。
あの頃のわたしに「ありのままで人はすでに美しい」といったところで、現状を分かっていない哀れな大人、としか思わなかっただろう。
7頭の犬たちは、出路も違えば体格も違う。健常な仔もいれば、四脚不自由な仔、心臓等内臓の病気を抱えている仔と様々だ。
一頭ずつを見ても明らかにトリミング失敗な時もあれば、どろんこで薄汚れちゃった日もある。でも魂から輝きあふれるその美しさが陰ることは一時もない。
犬たちの生活っぷりを眺めていると、それぞれの責任(と彼らは思っている)を各々が自信をもって(これはたまにとても太刀が悪い)果たし、あとは心の向くままに遊び、休み、穏やかに過ごしている。障害や体調が悪い仔には、おもちゃを先に譲ったり、場所をあけてあげる配慮があると思えば、他の仔が遊んでいるおもちゃを無理やり取り上げたり、急に数頭で一頭の仔を攻撃しようとする。
人の世界で起きていることは、まあまあにしてこの仔たちの世界でも起こっているらしい。
でも大きく違うことは、心の中に沸いた感情と行動の一致度だ。
もちろん、犬たちも我慢はする。甘えたい衝動ややりたい欲求を抑えようとする。でもだからと言って決して楽しそう、大丈夫そうにはふるまわない。
私たちは、人を傷つけないためと理由をつけ、本当は自身が傷つかいように、いやな奴だと思われないように自らの感情に蓋をして、相手の反応に合わせっこする。いつしか自分が何者で、何が望みなのかも分からなくなり途方にくれ、心の空洞を外側で埋めることに躍起になる。でも埋まらない。
私たちは日常的に湧き上がる思考や感情に正誤、善悪のラベルを貼り、ネガティブと判断されたものは隠され、見ない様に、あるいは初めからなかったものする。でもその思いが湧きがった時点でもうわたしの中にあったもの。それをないものとせずに受け止め、その奥に在る願いや想いを理解できた時、私たちは他人の表面的な行言動に惑わされずにその人の奥にある願いを理解し感じ取り、ありのままを受容できるのではないかと思う。
わたしのありのままを受け入れた時、わたしを含め生きとし生けるもの全てがありのままで素晴らしかったのだと気がつくこと、これが壮大なゴールの小さな一歩。