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ウェルビーイングと私 いくお

昨年7月に父を看取った。もう元に戻ることがない、普通なら生きる希望もないような状況で、父は家族のために5ヶ月も頑張って生きてくれていた。その澄んだきれいな目は、まるで生き仏のようだった。

父は私の勤務する病院に入院していた。コロナ禍ではあったが、家族の中でも僕だけは毎日父の顔を見に行くことができた。家族の想いを一心に受けて大変ではあった。でも父と毎日こんなに一緒にいることは大人になってからはなかった。毎日が父親からラストレッスンを受けている感覚。ある意味とても幸せな日々だった。朝は「おはよう、お父さん。そばにいるからね。お仕事頑張るから応援してね。」とハグ、夜は、「今日も応援してくれてありがとう。お父さんのお陰でお仕事、頑張れたよ。そばにいるからね。」とハグ。父は恐らくとてもしんどかったと思う。でも私が訪室した時は、起きている時は、大抵、ニコッとしてくれた。とっても嬉しかったのだと思う。

父の病室を訪れる時、僕は3つのことをしていた。1つ目は、オイルマッサージ。カサカサだったお肌がツルツルになった。部屋にはいつもオイルが発する柑橘系の香りが漂っていた。「ここのお部屋に来たらいい香りがして癒されます」と看護師さん達にも好評だった。2つ目は、父と一緒に写真を撮って、家族のグループラインに送ること。甥達にも出来るだけ日常の写真や動画を送ってくれるように頼んだ。家で飼っていた犬や、大学生の甥が筋トレや川で遊んでいる動画などを送ってくれて、それを父は目を細めて見ていた。3つ目は、父が書いた論文の音読をすること。小児科医だった父は昨年10月に自著の論文集『思い出の栞』を完成させたところだった。その中から1つ選んで音読していると、気管切開していたので声が出ないが、口をパクパクさせて何かコメントをしながら満足げな表情をしていた。
 
小児科医の父は33歳で諸事情あり開業した。僕が子どもの時は、クリニックでは毎日150-200人の患者さんを診療しながら、家庭では家事は母に任せっぱなしだったが、兄、姉、私の勉強も見てくれていた(後に兄と私は小児科医に、姉は薬剤師になった)。どこにそんな時間があったのだろうか、研究肌の父は、開業医で論文を書くのが珍しい時代に積極的に論文を書いていた。特に麻疹ワクチン二次無効に関する論文は、当時の常識ではあまりにもあり得ない報告であったため、リジェクトされ続けたようだ。ただ、自分が正しいものを見ている信念があったのだろう。粘り強く投稿を続け、最終的には査読のない商業誌に投稿して採用してもらった。そして後に父の仕事が正しかったことが証明された。仲間と始めた感染症サーベランスは後に国の事業へと引き継がれた。父が今の僕と同じ歳の頃はある学会の立ち上げメンバーとして活躍し、全国集会の会頭も務めた。病室では「岡藤さん」と呼ばれるより「岡藤先生」と呼ばれる方が不思議なものでシャキッとしていた。朦朧とした意識の中でもWEBで学会に参加して学び続けていた向学心。父は最後まで小児科医であることに誇りを持ったまま、僕の手を握ったまま眠るように旅立った。

 アマゾン創始者のJeff Bezosは「10年後に来るトレンドは?」という質問に対して「10年後も変わらないものに興味がある」と切り返した。父は僕達家族に10年後も100年後も恐らく千年後も人類が存在する限り変わらない大切なものを教えてくれた。「ありがとう。やりたいこと、みんなやりましたね。幸せな人生でしたね」と穏やかな父の顔を見て母が呟いた。

 今でもふとした瞬間に父がいない寂しさが津波のように襲ってくる。父の優しさが今更のように身に沁みる。そして、また、今更のように思う。父の生き様がいわゆるひとつのウェルビーイングである。


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