ウェルビーイングと私 じゃり
“ウェルビーイング”という言葉がが気になりはじめたきっかけはなんだろう。
はっきりとは思い出せないけれど、WIREDという雑誌のウェルビーイング特集に載っていた、ドミニク・チェンさんの『「わたし」のウェルビーイングから、「わたしたち」のウェルビーイングへ』という記事のタイトルが印象に残っている。
わたしが“ウェルビーイング”に反応した背景を、ふりかえってみる。
ソーシャルワーカーをしているが、“福祉”という言葉が好きになれない。というか、なじめない。福祉の仕事をしていると、「大変ね。」、「優しいのね。」と言われることは多いけれど、そのようなやりとりから始まった会話が、弾んだ記憶はほとんどない。
実は、福祉の仕事をしているのに、自分自身の生活の中で“福祉”という言葉を使う場面が想像できない。福祉とあまり関わりがなさそうな人に、“福祉”という言葉に対する印象を聞いてみた。「私の払った税金が使われている。そう考えると関係がないとは言えないけど、関係があるとは思えない。」というような答えが返ってきた。“福祉”という言葉から、具体的な人の顔が見えてこない。特別なひとのための特別なことと、人を分ける、制度の言葉の匂いを感じているのかもしれない。
同じように、狭くて固い印象を受ける“介護”という言葉より、人の体温を感じる“ケア”という言葉を好ましく感じる。“ケア”は生き物として互いの存在を気にかけ合うこと、人に触れ、命に触れる、豊かな経験でもある。
“ウェルビーイング”と言い換えてみることで、“福祉”は、関係のない人のいない、だれもに関わりのある生活の言葉となり、一人ひとりのウェルビーイングをわたしたちのウェルビーイングとして、会話のテーブルに載せることを可能にするのではないか。そして、それは笑顔でケアをし合える福祉の未来のデザインのはじまりなのかも。
ケアをひらく、人をつなぐ、“ウェルビーイング”。
そんな野望の欠片をうっすらと胸に忍ばながら、今日も “ウェルビーイング”をつぶやきつづけています。